十月初めから、珍田公使は帰朝の用意を整えていたが、十五日に、夫人を伴って、ペテルブルグを出立した。世話好きの人だったから、小村とはちかった意味で名残が惜しまれた。
小村サンのように手荷物を五十個も持って帰りたいが、私には持って行く品物もありません、と、とぼけた笑顔が、見送りの人々の好感を呼んだ。
突然、広瀬が駆け出した。珍田の側の窓に立っていた酒井はどうしたのかと目を見張った。
大男のロシヤ人が鞄を抱えて走っている。アッと思う間に、追いついた広瀬が、背負い投げでその大男をしたたか地面に投げ倒した。
「トンダことをしてくれた」 と、びくびくもので、酒井が駆け寄った。驚いた事には投げつけられた大男の方がひらつくばって、ただ平謝りに謝っている。そこへ一人の中年の女が出てきた。地べたへ投げ出された鞄を取り上げ、ニコニコしながら、丁寧に広瀬に礼を述べている。
どうしたと聞くと、この奥さんが持っていた鞄を、コイツが強奪したと聞いたので、けしからん奴だと思って、取り戻したんです、と落ち着き払って答えた。君はいい事をしてくれた、時にあの女の人は君のおちかずきかとたずねると、見たこともありません。通りがかりの女ですよ、とあっけないくらいあっさりしている。
部下の武勇によって酒井は意外の面目をほどこした。広瀬君はヤルねと言って喜んでペテルブルグを出立した珍田の後には、杉村書記官が十六日から代理公使の職をとった。
十八日の午後のことである。公使館で雑談していると電報が飛び込んできた。酒井大佐宛てである。酒井は一渡り目を通した後に、黙って広瀬に渡した。
『ヒロセショウサ十ガツ十二ヒツケキチョウヲメイゼラル」 三十四ネンドナイニキチョウノヨテイヲモッテ」ベンギソノチヲハッシ」 シベリヤヲツウクワシ」
ソノチホウヲシサツスベシ』
青天に霹靂であった。一瞬呆然とした。こんなに早いとは思わなかった。少なくとも来年の五、六月だろうとばかり思っていた。
野元大佐が六月半ばに発った時、普段から意思が疎通しないので、しみじみと思い出した訳ではないが、時々ロシヤ研究をもう少し続けたいとはいつも言っていたから、こちらの希望はわかっている筈。八月半ばには日本に着いたから、いずれ海軍省なりに出頭して色々報告もしたろう。意見も述べたろう。
意外に早く帰朝を仰せ付けられたのは、その辺の事が原因になっているのではないか、と邪推された。
理由はとまれ、もう決まってしまえば、何もこちらに言う事はない。つつしんで遒法するだけだ。わずか四、五ヶ月の差だから、女々しい泣き言はもう言わぬ、と彼は即座に決意した。
シベリヤ通過は普段から思っていることだし、公式にそう命令された事は彼を勇躍させた。旅行の用意については手早く整えることだけだ。訓令と旅費が届き次第、然るべく適切な策を案ずればよい。軍職にある身だから、潔く命ただ奉ずである。傍にいた加藤も、意外に帰朝命令が早かったな、と合点のゆかぬ顔をした。
二十二日海軍省から広瀬宛の電報為替が届いて、1024ルーブルを送ってきた。これでは印度洋を通過して帰るだけの普通旅費にしか過ぎぬ。少し閉口だった。シベリヤを視察するには、是ぐらいの金額では無理だろう。素通りするだけなら、どうやら足りるかも知れぬ。夏のシベリヤで、ただ通過するということなら、余りが出るかも知れぬ。しかし冬、しかも真冬、黒竜江上に剃車を走らせるとすれば、防寒具などに意外な費用がかかるにちがいない。そう思うと少し不安になった。心細い。だがどうしてもこの費用で帰れと言うのならば、旅行方法を変えよう。たとえば、一統に乗るところを二等で済ますというようなやり方を取れば、幾らかでも道はある。十分考え抜いてやってみる。・・・・・・
彼はドブロヴィドフの 「満州旅行案内」 (1900) 、同じ人の 「シベリヤ旅行案内」 (1901) 、ドルゴルコフの 「シベリヤ及びロシヤ領中央アジヤ案内記」
(1901) などを求め、貴国の途上に立ち寄る地方地方に対して、しかるべき知識を得ておこうとした。
手元の会計を調べてみると、去年の末は、年4千年の手当てを食い込んで、いくらか赤字だった。今年に入ってからは回復して、どうやら、一ぱい一ぱいにこぎつけた。印度洋まわりの荷物運搬費だけを何とか都合すれば、旅費もどうやらやってゆけるかもしれぬ。要するに費用次第で出立の期日を決めよう。
出きり事なら1902年元旦に、この都を立って帰ろう。しかし、あるいは一月の中旬か、二月の上旬まで延びるかも知れぬと考えて、おおよその腹案を、二十四日兄に報告した。
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