『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十章・ 誰 破 相 思 情 ==

十月十五日の朝、森山慶三郎大尉がパリから着いた。秋山と同期の一、二を争そう秀才で、去年フランスを見学した時、いろいろ世話になった。
広瀬は自分の部屋にと泊めて、ペテルブルグを案内した。共通の友秋山の噂が出た。彼は常備艦隊参謀になって、東郷中将の旗艦 「敷島」 に乗り組んで、司令部の中で一番若いのに、殆ど一手に艦隊を指導していると言う。

「あいつにはとてもかなわんな。兵学校の頃は、勉強しないでいつも首席でした。素晴らしい頭だ。それがこの頃は猛烈な勉強です。学校では勉強するが出るともうやらぬ我々凡人の逆じゃありませんか。時を惜しむ事、惜しむ事、人前だろうが何だろうが、ヤッコさん勝手に読んでいる。艦隊でも、艦長がまだお茶を飲んでいようがいまいが、用があればさっさと退席して、すぐ事務を取るそうです。簿傍若無人なヤツでしょう。けれども俺達とは段が違う。俺達の思いもつかぬような先を見ているんですから、かなわんよ。」
と、森山はこの同期生を率直にほめたてた。日本海軍で戦術家といえば、先ず大学校の山屋中佐のことを考える。その人は広瀬もヨコスカでよく知っていた。

「秋山も山屋さんとはごく親しい。たえず手紙で往復して、いろいろ論じ合っているようです。もっとも、二人とも今の首脳部には、受けがいいかどうかわからんな。なにしろ山屋さんは盛岡だし、秋山も松山出身ときてますからね。艦隊参謀ならまだいいが、大学校教官なんぞに呼ばれるのは有難いかどうか、わからんと思います。大学校の阪本教頭が、しきりに秋山を取りたがっているんですが・・・・・・」
と、森山はなかなか消息通である。

ある日、広瀬の留守の時、うっとうしい秋雨の中に訪ねて来た綺麗な若いロシヤの女がいる。森山は少し話をした。両方流暢なフランス語で話したのである。
留守と聞いた時の失望の表情がいじらしかった。日本人をとても懐かしがっているのが直感されて、西洋には珍しい良家の娘に違いないが、一体どんな経歴の女か、広瀬とどういう関係か、と考えた。
翌朝そっと加藤大尉に聞いてみると、コヴレフスキー少将令嬢だとは答えたが、あまり立ち入ったことは説明してくれなかった。東洋人のように可憐なその面影が、長く森山の印象に残った。

冗談は言っても、加藤は真剣だった。広瀬の行蔵を真心から案じて、あの翌日来、夕方になるとマリンスカヤ街から必ずやって来てくれる。
「晩飯だけは貴様と一緒に食わんと、まずい」 とか何とか言いながら、あらたまった事は何一つ言わない。それでいてよく気を付けている。
二月ほど毎夜そうしてくれた。どうやら案じたほどの事もなさそうだと見て取ってから、公用の為オデッサ視察に赴いた。見慣れた椅子に、あの快活な友の姿が見えなくなったことは、しばらくとはいえ、加藤の尊い友情を失ったように思われ、広瀬は一時訳もなく寂しかった。

珍しくも、登代子が便りをよこした。ふだん案じていただけに、嬉しくて繰り返し繰り返し読んだ。
父の死後大分の裁縫学校に入れてもらい、いまは熱心に勉強しているという。それは、かねて兄からも姉からも聞かされていたが、じかに言ってきたのは何とも言えず嬉しかった。
兄以外に、同じ母の腹から生まれたのは、この妹だけである。どうぞ健康で、しっかり勉強してもらいたい。
ロシヤに手紙を出したくても、字が下手だから恥ずかしいなどと思ってはならぬ。他人ではない兄なのだから、せっせと手紙を書くがいい。こっちはどんなにか嬉しい気持ちで読むだろう。
勉強の合間には、婦徳をおさめる文学などをたしなむがよいだろう。ヘンに浮ついたものは困るけれど、よい文学は女には必要なのだ、と書いて、十年前の妹への教育方針を思い出した。
あの頃に比べると、俺も随分ひらけた。ロシヤの上流社会の女から、目に見えぬ影響を受けたのかな。
マリヤ・ペテルセンや、アリアズナ・コヴレフスカヤを見ると、身分あり、才能あり、情操ある日本女性は、少なくとも立派な文学の嗜みが望ましい。
俺もロシヤへ来て、初めて、プーシュキンやトルストイを読んだが、ああいうものが文学ならば、殊に女性の徳操には好もしい教養を与える。日本にもああいう文学が欲しいものだ。 「太陽」 などで、時々流行りの小説を覗くが、どうも 「大尉の娘」 や 「復活」 のように優れたものが見当たらない。そんならむしろ 「小公子」 のような翻訳ものでも勧めたい。・・・・・・・

登代子にそういう返事を書き終えると、母にも便りが書きたくなった。
「武夫事不相多忙ニテ兎角御無音ニ打過ギ申候。不悪御仁免奉願候。所謂貧乏暇ナシト申ス事カト被存候。露西亜ニ居レバ居ル程相識出来交際ニハ中々骨折申候ヘ共之ガ出来ザル様ニテハ折角遠方ヨリ出掛シ甲斐ナキト存ジ時間ノ許ス限ト魂気ノ続ク限ト金銭ノアル限ニテ勉学ノ傍相当ノ交際罷在候。時下御自愛是祈。
       十月九日 再拝 武夫
                     母上様」

この手紙は、いわゆる生さぬ仲の母に宛てたものだから、大分固苦しいのはやむ得えないが、その頃のペテルブルグにおける広瀬の生活と気持ちは、さすがに伝えている。 「交際ニハ中々骨折申候」 というのが本音である。
複雑な陰影を帯びた表現で、内容は様々に想像される。しかし、 「時ノ許ス限」 「魂気の続ク限」 「金銭ノアル限」 「相当ノ交際罷在候」 というものは案外公平で、短い命の激しく強く清らかに燃え上がる美しい焔でつくられているものらしい。

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