『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十章・ 誰 破 相 思 情 ==

一人で考えてみると、オイソレとは答えは出ない。断然断るとすれば、思い切り良く一刀両断だ。こちらだけならそれでもよいが、それでは相手をあまりにも無視している。わが心にたずねても納得がゆきかねた。
迷惑だが嬉しいというのが本心だった。迷惑はよくわかる。俺には家もある、親類もある、務めもある、海軍もある。風俗の差を思うだけだって、そう考えるのは当然だろう。といって、嬉しいのも実感だ。おれはあの娘を好いている。いっそうもらおうか。
その時、彼の目の前には去年の五月も会った伊東義五郎大佐のパリの家庭が浮んできた。伊東は日本海軍指折りのフランス通だが、あの若い夫人は今でこそ満里子と日本風に名乗っているけれど、本名をマリー・ルイズ・フラバーズという、生粋のフランス女性だ。今はすっかり日本人と同じ家庭を作って、かいがいしく家政を引き受け、日本人の夫によく仕えている。
97年秋、はじめてパリまで辿りついた時、村上や、林や、自分達椋鳥を一家揃って大切にもてなしてくれた。 「日本料理が恋しいでしょう」 と笑って、わざわざ自分で買出しに出かけ、結構な食膳を用意してくれた。温かい心遣いが忘れられない。西洋人だといったって、日本人の女房とどこが違うか。目色毛色が違うだけで、優しい心遣いは同じさ。伊東さんは幸せ者だよと三人の若い大尉達は、かげでひそかに囁き合った。
あの時はまさか自分の将来の家庭が、伊東さんのようになるかも知れぬということで考えあぐむなどとは夢にも思わなかった。
日本海軍には、いやに尻の穴の狭い奴等が巣くっていて、人の悪口を言いたがる。伊東大佐というと、毛唐の女房を持っているから、うっかり機密は洩らされんぞ、などとぬかして、ヨーロッパの中心にいるフランス公使館付武官を悪し様に言う奴もいる。村上中佐は、さすがに伊東さんの立場を察してよく補佐した。涙の出るような心遣いをしているということを財部大尉から聞いた。毛唐の女房を持つと出世が出来んぞ、大佐にも昇れんぞという声も聞いたような覚えがある。別に出世はせずともいいが、海軍は俺の生命だ。そこで働ける前途を無にしてしまうのは愚だ。どうしよう・・・・。

それからしばらくの間、広瀬には眠れぬ夜がつづいた。毎晩妙な夢を見る。
故郷の家の門が夢に現れることもあった。エカテリニンスカヤのわが部屋に掲げてあるのとそっくおんなじなタラース・イワーノウィチ・ヒロセという片カナの表札が出してある。不思議だ、日本だぞ、九州だぞ、豊後だぞ、と思って、門前にたたずんでいると、中から春の装いをこらした日本服の美人だ出てきた。
菜の花だろうか、美しい花をいっぱい詰めた負籠を背負っている。手にも花を持っている。何もかも日本のものにはちがいない。でも何となく日本ではなかった。履物草ではない、下駄でもない。先のとがった黒繻子のサンダルめいたものを履いている。たしかにあでやかだが、こんなフェアリーの着物を思わせるように微妙なおりの日本服はありえようはずがない。ヘンだと思って顔を見ると、千万無量の思いをこめて嬉しそうに微笑した。あの絵葉書の女だ。はっと思って見ると、それはアリアズナだ。今はもうヒロセ・アリアズナと名乗っているあの絵葉書の女だ。
何とも言いようのない声を上げて、広瀬は目が覚めた。

駿河湾頭の富士が夢に現れることもあった。あの美しい山容を背景に、さざなみ立つ入り江に、戦艦 「朝日」 が友禅と停泊している。美しい、勇ましい、立派だ、見事だ、と、間投詞を連発しながら、日本一の山と艦とに見とれながら、瞳を凝らしてよく見ると、 「朝日」 の艦橋に仕官が一人立っている。見慣れない服装の美男子である。竹下少佐でもないし、日本の海軍の将校に、あんな綺麗な男がいたかしらといぶかしく思っていると、こちらを向き直って嬉しそうに微笑した。
あの絵葉書の女だ。はっと思ってみると、それはアリアズナだ。今はもうヒロセ・アリアズナと名乗っている絵葉書の女だ。
何とも言いようのない声を上げて、広瀬は目が覚めた。

こんな夢を続けて見るようでは、我ながらこそっぱゆく、黄海海戦の記念日に出ても、外の人のように物思いなく、あまり浮き浮きした気分にはなれなかった。
困った。途方にくれる。迷惑である。そのくせ、嬉しい。
一人になって何をせずにいても気持ちがはずむ。俺は今初めて生まれてきたのか。天も地も人も、初めて見るようになったのかとさえ思った。
世界は変わった。どこへ行ってもひと目にこそは見えないが、アリアズナがついてきていた。
迷惑なくせに、嬉しくて仕方がない・・・・・・。

夏が暑かったように、九月末日も暖かだった。十月はじめ四日頃から天候がくずれてきた。霧のような小雨がうっとおしい。
ミハイロフ大尉は別に諦めたなどとはっきり言ってはないらしい。広瀬が本読みにコヴレフスキー少将の邸を訪れても、少将夫妻は相変わらず歓待してくれる。令嬢の方からも切り出してこない。ただ、こちらにはアリアズナの本心を悟ったという一種の安心感が湧いたせいか、話をしても散歩をしても、楽になれるのは不思議な位である。ただ少しまぶしい。
前と変わらぬ広瀬の男らしい武骨な親切に、この頃からもう一つ、何ともいえぬ細やかなしみじみとした愛情がにじみ出てきた。
妹を思う兄の心に、恋人を労わる愛人の思いやりに近いものがいつの間にか出てきた。
どこまでが友情 (アミチェ) で、どこからが愛情 (アムール) なのか、広瀬にももうわからなかった。といって、彼が祖国愛を忘れたとか、海軍における彼の前途をもう捨てたとかいうことにはならぬ。広瀬の心の中では、まだ海軍とアリアズナとは並存している。
どっちかを捨てろと二者択一を迫られれば、どういうことになるか判らないが、今のところでは、そこまで事態は進んでいなかった。
もともと、彼は甘い汁をコッソリ吸おうなどといういやらしい気持ちは毛頭なかった。だから 濶達なふるまいは前と少しも変わらない。広瀬が濶達にふるまうと、それはそのままアリアズナの気持ちに反映して、彼女もまたノビノビと行動するようになった。
彼女はもう人の思惑などにとらわれなくなった。今年の春のように、一人引きこもって机にもたれ、啜り泣くよう事は全くなくなった。
彼女はいよいよ美しくなった。顔は生き生きとして来た。女王のよな誇りが自ずと身に備わって、父も母も、はっとする時があった。

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