『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十章・ 誰 破 相 思 情 ==

折角の戦勝記念日だというのに、広瀬がふだんに似合わずこんな文字を連ねたのには訳がある。
じつはその数日前の午前エカテリニンスカヤの広瀬の部屋に、ふだん来た事のないミハロイフ大尉が、突然姿を現した。
ひどく緊張した顔付きをして、このロシヤ士官は切り出した。

「今まで私は、あなたと恋の競争をしていたのです。ところが、コヴレフスキー令嬢の魂は、完全にあなたのものになっていまっています。この上強いて競争を続けていくのは、令嬢に対してお気の毒だと思いますから、私は諦めます。そのことを申しあげに参りました。ついてはお願いがある。それは、あなたが令嬢と結婚してくださるという事であります。」

事も事、重大な事を、あんまり出し抜けに、しかも緊張した態度で切り出されたから、広瀬は唖然としてしまった。
やぶから棒とはこのことである。四月万愚節の当日ではないし、ミハロイフ大尉の様子を見ても、本心からそう言っていることは明らかであった。
なんとも挨拶のしようがない。フム、フムと不得要領な受け答えをしながら、せいぜいのところ、
「私としては何とも申しあげられません。ただお気の毒に存じます。」
というよりほかに言いようがなかった。

大尉がそこそこに帰った後、広瀬はどっかと椅子に腰をおろして腕組みしながら考えた。
何ということだ。とんでもないことになった。
あの娘は俺を夫にしたいというのか。それが本心だというのか。
なるほどそうとわかれば、思い当たるフシは色々ある。
俺はただあの人をかわいい娘、親切な女、愛情の豊かな令嬢とばかり思って、妹を大事にするようにあの人を大事にして来ただけだ。
恋愛とかいうものだとは自覚して付き合っていたのではないぞ。逃げるわけじゃない。兄が妹を思うような気持ちだ。年下の若い女に親切にしてやる気持ちだけだった。
こっちが好きだったことは確かだ。決して嫌いではなかった。嫌いどころか、普通よりはずっと好きなんだろう。俺はただ俺の好きな、あの通り立派な娘を、俺流に大事にしただけだ。
とにかく恋愛とかいうものを目当てにして、付き合ったわけじゃない。

それにしてもモハロイフ大尉の言葉は意外だ。大尉の方では、俺と恋の鞘当をしていたという気持ちだったのか。
時々ヘンなことを言いおったが、こちらは別に気にもかけなかった。恋に狂って逆上した時の恨み言だったとわかると、本当に可哀想な事をしたと思う。もっと慰めようもあったろう。
ただどうにも困るのは、アリアズナさんの魂が完全にあなたのものになったというミハイロフの言葉だ。
西洋では、ことにこの都では、甘い美しい言葉を男が花束のように捧げて、若い女のそばに擦り寄り、一度ものにすると、もう、あとは野となれ、山となれ、口を拭ってしまうというあの悪い癖を、俺は大嫌いだ。
やった覚えはないぞ。言い寄るなら、身も心も捧げて打ち込んでいく。それと決まれば、生涯は連れ添う覚悟だ。相手にもそれだけの覚悟を確かめて、一生を共にする気持ちになってもらわねばならぬ。

ロシヤだって西洋だから、日本に比べれば、若い男と若い女との付き合いはずっと自由だ。自由だから、いろいろな事にも裏があるのだろう。しかし俺は、大和男児だ。ロシヤに来たって、国の良い所はそのまま守りたい。だからロシヤの若い娘と自由に付き合えれば行き合えるほど、その自由の中身は、立派な、きれいな、正しいものにしたいのだ。そう思ってアリアズナと付き合ってきた、少なくとも俺の方では・・・・・
あの令嬢はまるで親身の妹のようだった。おろかな俺は、親身の妹だとばかり思っていたのに、いつの間にか、俺を夫にしたい、俺以外の男は問題にしないというふうにつきつめた気持ちになっていたとすると、これは大変だぞ。
万一、そんな要求を今の俺にじかに突きつけてきても、こちらはオイソレとすぐに答えが出来ぬ。俺には色々な絆がある。その絆は簡単に振り捨てられぬ。これはとんでもないことになった・・・・・。

とつおいつ考えても、名案は出てこない。その時、広瀬の前には、ふと加藤寛治の顔が浮んだ。信頼できる性格だし、何よりよいことは、もう妻帯している。年下だが、女の心も生活も、少なくとも自分なんぞとは比較にならぬ位によく知っている。そうだ、あいつに相談しよう、と思いつくと、すぐに広瀬はマリンスカヤ街の加藤の部屋へ飛び込んでいった。
「オイッ貴様、とんでもないことになったぞ、どうしたもんだろう!」
と、広瀬は部屋の真ん中に真四角に突っ立ったまま、うろたえきった子供のようにソハソハしている。加藤は何のことかわからなかったが、だんだん話を引き出してみると、事件の輪郭と内容とはたちまち直感された。
「オモシロイことになったな。貴様の二世は青い目の子供か。俺が名付け親になってやる。安心しろ。あの娘と結婚したらいいではないか、何をうろうろしてるんだ!うっかりすると、ミハイロフの奴に取り返されるぞ。」
と、からかったり、けしかけたりする。
「つまらんことは言わんで、智慧を貸してくれ。」
「どっちみち、あの娘が貴様に打ち込んでいることは確かだ。俺は前からそうとにらんでいたぞ。貴様は朴念仁だから、それがわからんで、ますます親切にしおった。親切にすればするほど娘のほうはのぼせ上がる一方だ。女の心も知らんで、罪なヤツだなあ、貴様は!」
「しかし、西洋の事だから、いずれ何とか言ってくる。こっちから決して切り出してはいかんぞ。その時までは、貴様も大丈夫だ。落ち着け、落ち着け。」
「俺も貴様の立場になってひとつゆっくり考えてみよう。最悪の場合には、貴様はまだ一人者なんだから、いざとなったら結婚してやるさ。」
と、言いながら加藤はいたずらっぽく濶達な笑いを笑った・・・・。

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