そんな事を考えているうちに、黄海海戦の記念日が来た。
ロシヤ駐在公使珍田捨已はこの年四十五才。津軽の人である。木村のように機鋒鋭くはない。しかし、明敏な頭脳で、中々洒脱だ。円満居士という綽名があるように、東北訛りで、けっこう事務を然るべくさばく。
シナ公使から加藤高明のあとをおそって、桂内閣の外務大臣に栄転した小村のもとに、次官に抜かれる予定だと噂されて機嫌がよかったが、9月17日には公使館員一同を連れて、カフエーで祝盃をあげた。黄海海戦の第七記念日として、ボリシャヤ・モルスカヤ通りの角のフランスコーヒー店
「キュバ」 に集まって、一杯飲んだのである。寄せ書きになって、劈頭に珍田が 「黄海ノ大勝ヲ祝ス、捨已」 と走り書きすると、村田陸軍大佐は
「黄海海戦捷振千古 惇」 と続け、顔を赤くそめた杉村虎一書記官も、酔った 「ひろはる・かとう」 も、みんな危ない手つきで書いた。
酒井大佐は、主力艦 「橋立」 の副官だったし、田中少佐は 「扶桑」 の乗員だった。二人ともあまり雄弁ではないが、酒がまわると、口がほどけて話がはずんだ。
「 “定遠” “鎮遠” さえ片付ければ、あとは何とかなる。それには23サンチの大砲で。定、鎮の30サンチの装甲板鈑をぶちぬこうというわけで三景艦をつくったのですね。「厳島」
も 「松島」 もフランスから回航して来たが、ヨコスカで造った 「橋立」 だけまだ完成しない。危機は迫ってくるのに、思うように工事が捗らない。気が気ではなかったですよ。
そのうち 「八重山」 も 「吉野」 も出動する事になって、とうとう二隻ともヨコスカを出て行った。もうグズグズ出来ぬ。32サンチ砲だけ発射出来ればいいと決心して、その方ばかり急がせました。
やっと七月はじめに艦隊に編入されたが、射撃訓練はしてないんです。距離測定は、六分儀で檣頭角を測って、それから距離を算出するという生ぬるいやり方でした。これじゃ実践に役立たない。そこで目測の稽古をした。
訓練は恐ろしい。敵はもう目の前にいるんだから、真剣でしょう。めきめき進歩して、3千メートル位なら、大ていあたるようになりましたな・・・・・」
そういう酒井の回顧談はみにしみた。
加藤大尉は、あの日の戦いに参加できなかったと、くやしそうに、広瀬と共通の友人、中島資朋大尉の体験談を受け売りした。
十七日の三時過ぎ、旗艦 「松島」 が 「鎮遠」 から30サンチ半の砲弾を二発同時にぶち込まれた時の惨状はね・・・・・檣楼の上で距離を測っていると、ドーンと大きな火柱が目よりも高くやち上がった。あっという間に艦は右にぐーっと傾いた。つづいて熱湯の雨がパラパラ降ってくる。てっきりやられた、いよいよおだぶつか、と観念した。しばらくたっても何ともないので、目をそーっと開けて辺りを見回すと、艦はやっぱり水平に走っている。
あの時のうれしかった事は一生忘れられないと中島は言っていますよ。けれどその時、甲板は一面の大火災。そこじぇ真っ黒に焦げた裸の兵員がバラバラッと下から出てきた。左舷には三坪もあるような大穴がポカッと開いて、そこから海中に投げ出された兵員が何人も艦のそばを流れながら浮きつ沈みつ
「万歳!」 と叫んでいる・・・・・・
あの時の気持ちは何とも言えんと、奴は言っていました。そうでしょうな。
「いや、よくわかる。」
と酒井大佐が話を引き取って、
「 “橋立” でも下甲板天上ウラの電線を敵に切られて、火災になったのだ。鎮火すると、砲塔がやられたというので駆けつけた。あの日32サンチ砲は、日本艦隊全部で三門しかない。全軍でうち放した弾数は13発だということだから、平均4発ぐらいの割合だ。
一時過ぎ、司令塔の小窓のガラスが破れて、断片が飛び込んできた。塔内は血の海で、砲術長も一番分隊長も即死だよ。日本艦隊の頼みの綱の砲塔がちっとも動かないではないか。
どうした、と叫んでも、誰一人返事する奴がいない。一番大切な砲塔が動かないから、こっちはいらいらしていた。そうだろう。そのうち一人の水平が走ってきて、今敵弾が砲塔の中で破裂してみんなやられてしまいましたとどなる仕末です。
それじゃ返事のないのも無理はない。
そのうちしばらくたつと掌砲長が、砲塔の上に顔を出したから、戦死した砲術長の代わりに、航海長が指揮を取った。広瀬君のよく知っているあの江口だよ。ロシヤへ来たそうだね。
“撃てるか?” ときくと “撃てまーす!3千メートルならきっとあてまーす!” と向こう鉢巻で指を三本上げて江口の方を見るのだそうだ。
ちょうど 「松島」 が大怪我をして各艦各自の行動を取れという信号を上げたから、これはいいあんばいだ、3千メートルまで近づいて、
「鎮遠」 に一発見舞いたいと思って、江口が艦長に申しあげると、 「よろしい」 とのことだったので、 「面舵!!」 と命令して五分ぐらいは敵のほうに出て行った。
そのうち前続艦 「厳島」 が12サンチ連射砲をバリバリと撃ち出したまま、真っ直ぐ 「松島」 の方に進んで行く。 「橋立」 は横あいに出ていって、
「厳島」 と 「鎮遠」 との間に割り込んでいった。 「厳島」 の照準線を妨げては拙いと思ったので、航海長が 「橋立」 を半速にするように命じた。
艦長は前を見ていたが、 「厳島」 がいっこうついてこないじゃないかと言うんです。一緒にやって来る気配がないんだよ。でも3千メートル以内に入って、
「定遠」 「鎮遠」 を一線に見るところで串刺しするよう一発撃ちこんでやろうじゃありませんか、と江口が進言した。
艦長は“ 「厳島」 が来ないね、よそうか” というんだが、江口の方じゃ転舵を命じなかったので、とうとう“よせよせ” といわれて、仕方なく引返したのだそうです。」
あの時、旗艦 「松島」 が傷つくと、 「千代田」 は行動すべき仲間を失ったので、かねての約束を守って 「松島」 後を追うだけであった。あの時
「厳島」 が思い切って対艦 「橋立」 と協力して 「扶桑」 を従えて進撃したならば、一番小さい 「千代田」 だって、もともと闘志があるのだから、きっと同じ様に進撃してきたろう。
「厳島」 と 「橋立」 が主力になって、 「千代田」 と 「扶桑」 が左右から守って、近距離から速射砲弾を叩き込んだら、シナ側は砲弾が欠乏しているし、
「定遠」 はもう火災に苦しんでいたから、とても長くは抵抗できなかったろう。仮にこちらが傷ついても、四対二なら、きっと定、鎮ニ隻とも海の藻屑と化すことが出来たろう。惜しい事をした。本隊各艦の艦長が、もう少し独断専行の勇気をふるったら、全勝は目の前にぶらさがっていたのだが・・・・・。
「橋立」 も 「扶桑」 も適に向かって艦首を向けて進んでいたのだから、 「厳島」 さえ、もっと突進すれば、決戦の戦果は徹底的にあがっていたろう。
これからはあの教訓を生かして、思い切りやらせねばならぬと、去年の夏フランスで秋山が痛烈に批評していた言葉を広瀬は思い出した。
人柄だけに酒井が自慢するわけではなし、田中が功に誇るわけではないが、実戦に参加できなかっただけ、正直な広瀬は、口出しも出来ず、ちょっと手持ち無沙汰だった。彼は、寄せ書きに
「七年ノ昔話ヤ創ノ痕ト云ヒ度処ナレド、御アイニクサマ。黄海ノ戦ニ出逢ハズ。人ニ話サン術モナシ。海軍ノ手柄話デ呑ム酒ハ目出度モアリ目出度モナシ 武夫」
と狂歌を一気に書きまくって、胸のうやむやを晴らした。
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