『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第一章・インド洋をこえてヨーロッパへ ==

広瀬武夫は、正式にロシア留学を仰せ付けられる辞令を、山本軍務局長から6月26日の昼少し前に手渡された。実は、3月9日軍令部出仕に転じた時、じきに海外に派遣されるという内命を受けた。
そのためロシア語研究の都合から一時落ち着いた兄の家を出て、同僚秋山真之にすすめられ、麻布霞町の上村翁輔 (カミムラオウスケ) の邸に十四日から同居した。主人の上村が横須賀在勤の留守宅である。
門札には 「上村」 と出したまま、若い独身の大尉二人が老婆一人を雇うて書生流の生活に入ったのである。二人とも初めての陸上生活だから、河童が陸に上がった体で、万事不都合なことが多い。籠の中に何日分もパンを買いだめさせておく。面倒くさいといって、時には飯もお茶も作らせない。来る日も来る日もパンと水だけで過ごす。

広瀬は着物を一揃い兄嫁から借り受けた。蒲団も持ってゆけと勧められたが、毛布だけで大丈夫ですと威張ってきた。それが三月半ばの寒さを凌ぎかね、夜通し眠れず、閉口して早速夜具を借り受けたこともある。軍令部へ出勤しては、机に向かって取調べものに打ち込む生活を続けたが、かねての内命は今直ぐに実行されがたい。しばらく研究していよと、5月14日附で軍令部諜報課員に補せられた。
そののち秋山は郷里の伊予から母を呼んで、芝の高輪車町に家を構えた。広瀬も時々遊びに行った。あるとき二人で雑煮の喰べ競争をした。二十四杯平らげた広瀬に、軍配があだった。広瀬はまたしばしば四国の雉をご馳走になった。

六月の半ば過ぎ帆掛舟が出たからもう大丈夫だと、そっと教えてくれた同僚が居た。山本のサインは帆掛舟に似ていたので、留学の上申が許可されるだろうと予報してくれたのである。
そんなわけでどっち決まらずの月日を送っている内に、6月26日、正式な留学辞令を授けられたのである。その時の広瀬の喜びようは思いやられる。ロシア研究に志す年来の希望もかない、非常な知遇をかたじけなくしたと感激して、欣喜雀躍という言葉があるが、彼はもう躍り上がって喜んだ。

その直前に兄がイギリスに派遣される辞令を受けた。兄は七つ年長で、勝比古 (カツヒコ) という。
子供のころから神童と呼ばれて、学業は優等、思慮は老熟、人物は温厚で、1883年に海軍兵学校を出た。弟には自慢のタネの兄である。二人はとても仲がよい。
1894年の戦いには巡洋艦 「浪速 (ナニワ)」 の大尉砲術長をつとめ、艦長東郷平八郎大佐の指図のもとに豊島 (ホウトウ) 沖でも、黄海でも、抜群の勲功をたて、95年には台湾に南征した。96年にはすでに軍令部第二局員に移っていた。それが97年6月10日附で、イギリス、ニューカッスルで造っている快速巡洋艦 「高砂」 の回航委員に選ばれたのである。
兄弟揃って洋行とはと周囲の人もうらやみ、兄弟としても広瀬一家のために無常の面目を施したと喜んだ。
それだけまた広瀬は、この栄誉を肩に担って責任の重いことを感ずるにつけ、いよいよ奮励せねばならぬ、出来るだけ健康でいたい砂を噛んでも勉強しあげてお上のお役に立ちたい、しかるべき者になって日本に帰って来たい、と心に誓った。

留学の期限は、はっきりと示されなかったが、六年ぐらいになるかも知れぬという内示だった。六年といえばかなり長いから、六十の父はとにかくとして、高齢の祖母のことを思うと、すぐにも帰省したかったが、なに、過ぎ去れば夢の間である。・・・・・そう考えて、六年のうちには必ず帰省して、久しぶりで慈愛に満ちた温顔を拝もう。それまではどうぞ達者でいて欲しい。そういう気持ちから、手紙で心境を伝えただけで、故郷へ帰ることは思い諦めた。
それにつけても、和食を食べるのはもう日本に居る短い間だけのことだと考えて、彼は、役所の弁当もぜんぶ日本食を命じた。宿も麻布今井町の妙像寺に移した。

兄の一行は、7月10日に東京を発った。広瀬は、ロシア義勇艦隊の艦で、11日ごろ長崎から出立するつもりであった。それが色々な都合で予定が変わり、財部大尉、秋山大尉より一便遅れ、村上大尉、林大尉と一緒に、8月8日横浜からフランス船で行く事になった。

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