『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第十九章・ Amitie かAmour か?==

司教アルベルトゥスが、ドゥーナ河の入江にリガの市を始めて築いたのは西暦1201年のことであった。
1202年には、騎士団がつくられ、プロセインのチュートン修道会と合体した。アルベルトゥスに招かれて、ブレーメンやリューベックなどから多くの住民が集まって、町はだんだん大きくなり、様々な特権を与えれ、まもなくハンザ同盟の一員に加えられた。
こういうリガ市の歴史から計算すると、1901年は奠都七百年にあたる。その記念産業博覧会がリガ市に催されて、盛んなお祭り騒ぎに町は賑わった。
広瀬はここを去年視察したが、博覧会見物をかねてもう一度やって来た。七月四日に到着して、六日までいた。公務だから丹念に見学した。視察したものは、一々記録にとって、海軍省に報告した。
例年になく暑い夏であった。六月からもう何十年目かという位に暑気は堪え難い。 「いふまいと 思へど今日の 暑さかな」 などと月並みの発句を思い出したりした。

六日の夜行でレーヴェリに赴いた。コヴレフスキー少将の別業を訪うためである。暑い、暑いと言いながら、一家の人々はみんな海水浴をしたり、郊外へ散歩に行ったり、呑気に暮らしている。
広瀬が来たので一家をあげて歓待した。記念に写真を写そうというので、別業のそばの芝草に毛布を敷いて、みんなでくつろいだ姿勢にして撮影した。一枚は、父少将が向かって右、母が左、その次に叔母、更にその次に姉が坐り、そして前景に、ちょうど艦から上がったセルゲイが足を伸ばしてくつろぎ、肩から回されたアリアズナの手をとっている。アリアズナの向かって左に陣取った広瀬は、顔を心持右に向けて、幾らかはにかんだような表情になってしまった。
五月中頃のある夕方の事を思うと、何となくこそっぱい感じがしたのである。少将は知ってか知らずでか、極めて寛大応揚で、態度は前と少しも変わらない。婦人もまるでわが子のような親しみを見せてくれる。父の重武が亡くなったことに対しては、一族の不幸を弔うように真心から弔意を表してくれた。
広瀬自身も、折に触れてふつと悲しくなる。ぼんやりしている時もある。アリアズナの愛に溢れた褐色の眼が、そんな時じっとこちらに注がれて、無言の内に彼を元気付けた。

コヴレフスキー家の人々のお相手をしていると、悲しみを忘れていた。父もいる、母もいる、弟もいる、妹もいる。いないのは兄だけだ。
この別墅に泊めてもらった夜、寝台に横たわりながら、広瀬は久しく頼りのない八代中佐のことを思い出した。日本へ帰ってから、ぐんぐん出世して、戦艦 「八島」 に副長から通報艦 「宮古」 の艦長にすすみ、日本海を遊弋している。この十月には抜擢されて、大佐に昇進するかも知れぬという人の噂を聞いた。めでたい事だ。丈夫で、とても忙しいのだろう。相変わらず気焔万丈の議論に花を咲かせているに違いない。八代先輩の事を思うと、彼の唇には自ずと微笑が湧いてきた。
八代の男らしい、美しい顔がいつの間にか女になって、白い肌と豊かな頬と可愛い笑窪の生まれる顔に変わった。あの画ハガキの女だ。二人とも邪気がない。
明るい魂だから、年は違う名前も違う。八代六郎といったりアリアズナ・コワレフスカヤといったり、表れた形は別だけれど、魂は同じものではないか。自分も同族のような気がする。みんな世間的には変わっているが、世間だけを唯一のものだとは考えていない一族なのだ・・・・・・。
ああいう人々の中にいると、性が合っているのか、自分はのびのびとする。アリアズナが自分を大事にしてくれるは嬉しい。ただ、あんまり自分ばかりを大事にして、そばに寄り付くロシヤの士官をまるで相手にしないのは、見ていてはらはらする。ミハイロフ大尉などは可哀想なぐらいだった。俺がいれば、然るべくとりなすが、帰った後では大丈夫かしら。俺のそばに来ると、いつまでも面白そうにして離れない。こっちが心で大事にしているから、ああいう態度はわかりもするが、マリヤ・オスカロヴナになると、ああはしない。家風の相違か、人柄の相違か、年令の相違か ── 女というものには、いろいろな型があるものだな・・・・。
それにしても、かねて同級でごく親しい町田駒次郎少佐の家から頼まれたといって、陸軍の町田 (経宇) 少佐が、このあいだ媒口をきいてきた。東京の兄嫁の便りに、町田 (実鞆) 老夫人、若夫人がうち連れて、六月ごろ兄のところへ訪問に見えたとあった。あれを思い比べると、これはクサイ。前後照応があるぞ。若夫人の妹をもらってほしいという謎だろう。もしそんなことならば、とてつもないことを吹き散らし、叩き壊して貰いたいと兄嫁には頼もう。俺が今こんな気持ちでいるときに、結婚話など持ち込まれては、たまらない。相手のお嬢さんだって気の毒だ・・・・・と広瀬は一人ごちながら、いつか眠りに入った。

NEXT