『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第十九章・ Amitie かAmour か?==

そのころ、馨子に送った画ハガキは、鞭を持った猫の先生が四匹の子猫に読み書きをしきりに教えている図である。
先日 「シャシンヲオクリマシタ」 から 「ゴランナサイ」 と書いて、さてその次の消息の真意は、八才の子供にはわからなかったろうが、今日われわれが心して読むと、思い当たるふしが多い。
「私ハ、ロシヤニキテカラダンダンワカクミエルーウデス ソレハケイチャンヨリモットチイサイコドモナドトアソブカラダト人ガ云マス チエモチャウド五ツツカ六ツ位ノモノダトジブンデカンガエマス ソレ故 イマモベンキョウシテ エラクナルツモリデス ロシヤニテ タケオ」 という手紙がそれである。

「ロシヤニキテカラダンダンワカクミエル」 ── あなたは年を逆にとるお方という言葉は、女の口から聞いた一種の皮肉でなければならぬ。
「ケイチャンヨリモットチイサイコドモナドトアソブカラ」 という嫌味は、そんな子供なぞ相手にしないで、もっと私のそばにいて・・・・と女に言われたのである。
「人ガ云マス」 とは客観にかこつけた何という見事な言いぬけか。
「チエモチャウド五ツツカ六ツ位ノモノダトジブンデカンガエマス」 という、その 「チエ」 とは、世心のことにちがいない。
「ジブン」 でも五つか六つだと考えるというのは、そういう 「人」 に答えた言葉だったのか? 少なくとも、心ひそかにどう思って、心中忸怩としていたのだろう。
だから 「ベンキョウシテ エラクナルツモリデス」 という結論は、すっかり子供になりきった文章のまねをして、逆にその女の人にしっぺ返しをしていると解さねばならぬ。クルイローフの寓話がこなれた日本語にうつされると、こんな形をとるのであろう。

十九世紀はじめの寓話詩家の集を愛読していた結果が、ここでこんな形で出たように思う。この画、この文、この字、そうしてこの心──天性の 「児童文学者」 広瀬武夫の面影が、ここに浮き上がって見えて来はしないか。
それでは、ただの児童文学──コドモに宛てた画ハガキかというと、そうではない。ここにもう一面のウラがあって、たしかに三十三才になった広瀬の自嘲と自恥とが紙の上に聞こえてくる気配が濃い。といって、冷汗ばかり流しながら読むのは、行き過ぎというものである。どっちにしてもただ一つ明らかな事は、このごろ広瀬の勉強していたものが、必ずしも大人一般のいわゆる学問ではなかったという事実である。彼はこのとき女心を学んでいた。精神年齢五つか六つの広で武夫が、チイチイパアパアさえずりながら、ロシヤの女心のイロハを一番の初歩から汗水たらして学んでいたのである。
おかしいやら、あわれやら、今日顧みると、このシチュエーションは有情滑稽のカテゴリーに入る。しかし、当の広瀬自身はこんなあり方をあまり深く自覚はしていなかったらしい。そんなところも、広瀬の特徴をなす子供らしさの一部なのである。

花咲き乱れる五月が来た。小鳥の声も楽しげで、どことなく匂の海が一面にあふれてきた。天も、地も、 「春」 の女神の香爐の香りにつつまれた。人もまた酔いしいれた。
ある夕暮れ、エカテリンニンスカヤの広瀬の部屋を訪れたアリアズナは、帰り道に送ってきたその人と連れだって、いつまでも、薄明かりに包まれた運河の辺をゆるゆると散歩した。
広瀬の方では、四月の末あんな手紙を書いてしまった後だから、もう前のように無心にはなれない。思う人にやっぱりわかっていただけたとアリアズナは何となく嬉しく思い当たる節があって、妙に心が騒いだ。彼女はもう何も考えたくなかった。この人のそばにいれば、それで何も要らない甘い気持ちになれたのである。
「前からのお兄様みたい!兄のセリヨージャは小さい時いつも腕を組んでくれたわ。タケオさんも、して下さいますわね!?」
彼女は、そうささやきながら、広瀬の左腕を、ふるえながら、わが右手にとった。水のほとりの薄明かりの中に、美しい頬が上気していた。
あの画ハガキの女とそっくりだった・・・・・。

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