『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第十九章・ Amitie かAmour か?==

かねて案じていた予感は現実となって現れた。五月二十六日、故郷の父が四月六日に亡くなったという通知が届いた。電報を打ってこなかったのは、今更早く知らせても広瀬の心をかき乱すだけだという東京の兄の心遣いからであった。
涙がはふり落ちる。ただ嘆くだけである。悲しむだけである。身体中の力がすっかり抜けてしまって、その当日は、兄に手紙を一本書いただけで、あとはもう筆をとる勇気が萎えた。その夜は涙の中に明かした。 故郷に便りをしようと思っても、筆が進まぬ。幾度か手にとった筆を投げ出した。
思えば1896年正月、豊後竹田に帰省した時が最後で、とうとうその後は一度もお目にかからなかった。なに、そのうちお会いできると思っていると、ロシヤに来てしまった。こんなことならロシヤへ出発する直前に、せめても一度お目にかかっておきたかった。
女の泣き言に似ているが、まさかこんなに早く、こんな目にあうとは思っていなかったから、今日よ、明日よとうち捨てているうちに大変なことになってしまった。
ロシヤに四年居たから、その間いろんな目にあい、いろんな経験もした。珍しい風景も見たし、妙な人間にも出会った。せめてそれを土産話にして父に聞かせたならば、どんんあにか喜ぶだろうと思って、手紙だけは、そのつどそのつど書いたけれど、もうその父はこの世にいない。いないと思うと、だだそれだけで訳もなく涙が流れてきた。
ふだんの心掛けとして、自分は海軍士官だし、海上の勤務が主だから、父のそばにいて孝養を尽くす事は出来ないが、身を立て、名を揚げれば離れている父も喜ぶと考えて、ただそれを楽しみに一日一日をおくってきたのに、前には祖母に亡くなられた。今は父がその後を追うてしまった。この世の中で俺のことをほんとに喜んでくれ、俺の為にほんとに悲しんでくれる人たちは、みんな亡くなったのだ。なんという悲しいこと!。

思えば父の死は、広瀬一家に対する最大の打撃だ。残された母は哀れである。自分には義理の母に過ぎないが、どんんあにか悲しんでいる事か。一番頼りにする人に別れたのだから、その後のさびしさはひとしおだろう。慰めてあげたい。遠く離れていて、直接の力になはれないが、東京には兄夫婦も居るし、相談にあずかれる。妹はそばにいるわけだから、何なり命じて頂きたい。妹は今まで心配ばかりおかけした。兄としても面目ないが、父の血を受けてはいるし、ただ一人離れているのだから、よろしくお願いしたい。
それにつけても、可哀想なのは、女中のおかつである。長年広瀬家に奉公していて、昔からよく知り合った祖母とも父とも別れたのだから、いっそう頼りのない身になってしまった。何とも言い様のないほど可哀想である。ああいう性質だから、母も使いにくいところもあろうが、とくに不憫をかけていただこう。

そう思って、彼はおかつに宛てた手紙を書いた。あまりガクがないから、読みにくいところがあるといけないと思って、漢字にはみんなふりがなをつけてやった。

「最モ目ヲカケ御使被下シ、祖母様モ御逝去被遊、最モソノ後ノ成長ヲ楽ミシ芳夫モ黄泉ヘ旅立チシニ、又モヤ最モ力ニ思フ父上様ト相分レ候次第と相成リ、貴様ノ力落シモ嘸々ト察スルニ余リアリテ、思ハズモ涙ヲ催シ候。
サレド飛騨以来ノ古キ昵懇トシテハ、於登代モアリ。斯ク云フ武夫モアリ。兄勝比呂様、衛藤叔父様モ其時代ヨリ、御承知ノ筈。且ツ母上様ニ於テモ、已ニ拾数年御使ヒ被遊シ間柄ナレバ、必ズ力ヲ落サズ、不相変奉公専一ニ相勤メ、吾々共ニ代リ、当時最モ便リナキ母上様ニ冊キ参ラスベシ。
尤モ奉公人ノ分限ヲ忘レズ、従順ニ万事万端母上様ノ御指導ヲ受ケ、相逆ラハザル様心カクベキモノナリ。貴様ガ当年迄広瀬家ニ対シタル忠勤ニ向ッテハ、武夫モヨク承知ナレバ、貴様ヲ見棄テル様ナル事ハ、決シテ致スマジク候ヘバ、必ズ必ズ安心シテ、祖母様父上様御存命オ如ク、相働キ可申。我儘ナル仕打シテ皆々ニ厭ハレザル様、心掛可然ト存候也。
       明治三十四年六月七日  在露   武夫
              於かつどの                    」

召使の階級を呼ぶのに、当時の文章としては、ごく丁寧な呼びかけ方である。 「貴様」 というのは、今では乱暴な用法が行われ、同輩以下を呼び捨てる時に使うが、この広瀬の手紙の中では、もっと親しみのあるニュアンスに満ちている。今でいう 「あなた」 とか 「お前」 とかいうくらいの親しい内容を含ませていたらしい。
くり返して読むと、思いやりのある多感な彼の人柄がそのまま流露している。こっともこれは彼の天性でもあったが、同時にうつろになった彼の心に微妙に染み入った愛の慰めが裏にあって、それが今同じ悲しみに沈む老婢への思いやりとなって表れたのである。
とにかく六十の老いた召使にしろ、十八の若い令嬢にしろ、女の魂の微妙なありかたに通じていなければ、とてもこんな手紙は書けない。女が眼中になかった広瀬に、ロシヤの生活が教えた一番人間的なレッスンの結果の一つを、我々はこの手紙の中に見るような思いがする。

おかつへの手紙を書きながら、指を折って数えると、祖母が亡くなってから四年になる。父も死んだ。俺をこの世で一番愛してくれた二人の人は、もう居ない。おかつを慰めるどころではない。俺こそ全く一人ぼっちになったのだという実感が、ヒシヒシと迫ってきた。
まだ兄も居る、妹も居る。だけど、俺を本当に愛してくれる人、本当に俺をわかってくれる人は何処にも居なくなったのだ。天にも地にも俺は一人身だ。本当に孤独の身になったのだと痛感された。泣きじゃくっても追っつかない。考えてみてもどうにもならない。ただ孤独だ、孤独だとくり返される。
思い切りのいい筈の俺が、こんな女々しい事でいいのかと反省されたのは、亡くなった通知を手にしてから大分たってからだ。少なくとも十日位は仕事も手につかなかった。
ただぼんやりとしていた。この時、加藤寛治が真心から慰めてくれたのは骨身にしみた。マリアもそうだが、アリアズナの慰めはとりわけかたじけなかった。一緒に心から泣いてくれたからだ。指を折ってみると、いやな夢を見てアリアズナに慰められたあの日に、父は最後の息を引き取ったらしい。不思議な巡り合せだ・・・・・。

こうして、いよいよ孤独になったと感ずるにつれ、逆にまた彼は真の人の心に触れて、人間と人間との間の深いつながりを実感した。嘆き悲しむ彼に真心を示した人々が、 彼にはあらためて精神上の一族になってきたのである。
彼はフォン・ペテルセン家の人々やコヴレフスキー家の人々に対して、いよいよ親身の弟妹のような懐かしさが加わってくるのをどうする事も出来なかった。

いつまでも悲しみにひたっているわけにはいかなかった。六月初め酒井忠利大佐が着任したのである。酒井が挨拶に行くところへは、広瀬もお供をして行く。なにしろロシヤ語は全くわからない人だから、駐在先任官の責任上、広瀬はなにもかも世話しなければならなかった。
有名な殿様の一門だから、育ちがいい。いかにも応揚である。その代わり事務は万事駐在員たちに任せきりである。この先輩の人となりはヨコスカの水雷隊司令だったころから、部下の一人としてよく知っていたから、広瀬もべつだん何とも思わない。その働きの上からいえば、広瀬も、田中も、加藤も、みんな気は楽だった。今までのように、裏で邪魔されるなどということはまるでない。
野元大佐が十四日にペテルブルグを出発した時、一同はほっと安堵の息をつくとともに、これからはやりいいぞと語りあった。いつもこっそり監視されているようで、こっちもたえず用心していたその人が帰朝した事は、無意識の内に広瀬の心をくつろがせた。碧い目の人や褐色の目の人との関係が一段と深入りする機会は、それだけ加わって来たのである。

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