五日の夜は変な夢を見た。どこだか場所はわからない。庭だということだけは見当がつく。 木が一本たって、果物がなっている。例の食いしん坊で、ゆり落として食べてみたところ、まだ熟していない。その酸味をおびた舌ざわりがひどく不快だと思った刹那に目が覚めた。
一日の務めは一日で果たして、くよくよしないから、普段夢など見たことがない。なんだか不快感がいつまでも身体にまつわり付いているような嫌な気持ちになって、午後外に出た。
まだ風が寒い。フォンタンカの運河に沿うていつの間にか、春の陽に木立の影が彩づく 「夏公園 (リエトニ・サード) 」 の中に入っていった。去年五月にヴェルサイユの庭園を見てから、この庭のフランス様式も基づくところがあるのを知った。ネヴァ河の畔のピョートル離宮に入ると、大帝がオランダから持って帰ったという大時計の十八世紀風なのがひどく古風で気に入った。
しばらく見ていると、心が静まってきて、連想が活発に動く。海風に吹かれて、水を見ると、俺は元気になるらしいと一人ごちながら、子供の集まる広場に出た。いつも見慣れたクルイローフの銅像の傍に立って、しばらくの間見るともなく眺めていると、かすかに笑う気配がする。ふり向くと、アリアズナの笑顔が彼を待っていた。
ヤァと会釈して、この間の花のお礼を言うのが遅れた。名乗らない美人がゆかしいので、あの花は大事に生けてあります。色々な夢を見ながら・・・・・と、相手が相手だから、西洋風のプレシオジテも不思議にすらすらと流れ出た。
彼女はかすかに頬を赤めたが、
「どんな夢をごらんになりますの?」 と、嬉しそうに口籠った。
「なにしろ果物がなっているので、ありがたいと思って一口食べてみたら、まだ熟していなかったという夢ですよ。くいしんぼうの罰あたり!」
と快活に答える。アリアズナは急に眉をひそめた。
「いやな夢!。ロシヤ人の間では熟していない果物はいけないのよ。涙の種になるって、昔から言っていますもの。せっかく持って伺ったのに、お留守だし、夢を見て下されば、涙の種などというのはいけませんわね」
と寂しそうな顔をした。広瀬も不吉な予感を感じた。
「あの花が原因で、あんな夢を見たのではないと思います。国の便りにちょっと安らかになれぬことがあったから、普段気持ちが結ばれていて、そのためヘンな夢を見たのでしょう。日本では夢は五臓六腑の疲れといいますから。」
と、若い娘の憂いをなごめようと、ほんとの事を打ち明けてから、明るい調子で言った。
「お暇なら、ぶらぶら散歩でもしましょうか。」
心に翳りの残っている広瀬は、その日、話し相手がほしかった。話していれば、不安は忘れる。
いつもとちがうその広瀬の屈託ぶりが、アリアズナの心を暗くした。
彼女は何とかして広瀬の心配を慰めようとした。しかし言うべき言葉を知らない。一番適切な表現も思いつかない。ただ黙ってついてきた。言葉なき同情は、なまじいな表現のもうち勝った。愛情は沈黙の中に流露して、心を優しく潤した。
父の手紙から、もうなんだか長くないような気がするという不安がしずめられない。
「なにしろ海山を越えて、何千里も遠い遠い国ですからね。いざということがあっても死目に会えないでしょう。それは覚悟しているのですが・・・・・」
「ヤポーニャというのは、そんなに遠いお国なの?、だってそこからおいでになったのでしょう?。お帰りになれますよ。」
と慰めて、広瀬の顔を見上げながら、かすかに
「私だってお供してゆけますよ」
と早口に言って、はっと顔を赤めた。
その思い詰めた気配を察して、広瀬は身体中の血が急激に流れた。こんな異郷に、自分と同じ魂を持ったもう一人の人間を見つけたという喜びである。こっともこのときの彼には、まだ友情
(アミチェ) と愛情 (アムール) との区別がはっきりとついていなかったけれど・・・・・・。
兄嫁が冗談めかして、西洋人の Amie (アミー) が いるかいないかと探りを入れた文に答えて、二十二日の夜、筆をとった時、彼は思わずアリアズナの俤にうらづけられて、わが本心をそのまま書き下ろしてしまった。
「仮ニ武夫ガ縁アリテ碧眼金髪ノ児ヲ御紹介申ス期有之候ヘバ御義絶ナドト御憤慨被遊間敷ヤ。ソノ点ニツキマヅ第一御伺ヒ申シ上ゲタク候。実ハ武夫モ当露国ニ於テナドト切リ出シ候ハバ御吃驚ノ御程度ハ如何ノモノニヤ。」
彼は真顔になって、姉にこう探りを入れた。姉の反応を大体予測しながら・・・・・
それではあんまりむき出しになるし、味も素っ気もなくなるから、広瀬はわざと落ち着いて、兄嫁の出方に先手を打ってからかいながら、それとなく事態をほのめかした。このへんの芸当はなかなか堂に入っている。親類や一門を除いて、若い女とほとんど今まで付き合ったことのなかった筈の広瀬にしては、ここ一月ほどのうち急激な進歩をしたものではないか。ロシヤにおける彼の交遊ぶりも推測されて、すこぶる面白い一節である。
「 『西洋人ノ奥様ヲツレテイラッシャイ』 トハ武夫ニ大々失望ヲ与へ由候。如何トナレバ敦レ敦レ御前様ノコトナレバ、武夫ガ帰朝ニ先ダチ本邦ニ於テ可然候補者ヲ見立テ、帰朝ノ当日ニハ屹度令嬢
(日本) 連ノ写真展覧会ヲ御開始被下候事ト仕リ大ニ楽ミオリ候トコロ、御文句ニヨリテハソノ御主意ハ針ノ先ニテ突タル程ノ痕跡モ見ヘザルニハ又モヤ大ニ失望ヲ与ヘラレ大ニ大ニ愚痴ヲコボシ度相成申候。アンマリデスハ御姉上様・・・・・・・・」
「エエ其ンナコトナラ露西亜カラ立派ナ、素敵ナ、豪気ナ奴ヲ、亭主ヲ尻ヘ敷島ノ国ヘ連レテ帰リ見ン。其奴ガワザト群衆ノ前ニテ亭主ニ靴紐ヲ結セナドシテモ決シテ陰口ヲ下シタモウコトナキヲ望ムコトニ有之候。か呵呵」
この手紙を読むと、姉の気質を心得ているから、彼女のふだん要望するものを誇張して出してみた。向こうの隠れた願望を明らかにすれば、こっちにはそれが判っているという意味を直感させるから、相手を満足させられると考えたのである。じつは嫁の候補なんぞ、並べられては迷惑である。あんまりそんなことに力瘤を入れると、アテが外れますよ。あなたのように
「亭主ヲ尻ヘ敷島ノ国」 では、それでよいかもしれませんが、こちらでは少し勝手が違いますと言いたいのである。書きえて、巧みな手紙と評さねばならぬ。
ところでこの一節の行間を読むと、広瀬はすでにロシヤに於て、ある程度まで親しみ、いや、もう少し深いエリゾンをもっていた令嬢がいたとせねばならぬ。そのロシヤ令嬢を盾にとって彼は手強い姉をおどしつ、すかしつしているのではないか。そんな気配が感じられないか。
今のままではとにかく兄嫁はむりにも嫁を見立てようとしている。昔気質の父がなんと言うかはわからない。やかましいはずの祖母はもう死んだ。兄嫁が誰を候補に連れてくるかによってこちらにも考えはある。それにはある点まで真相を匂わせておかねばならない。兄嫁はとても鋭い人だから、この短い文言からいろいろな事を推察するだろう。
相した計算と底意が流れていた事は確かだと思う。
ちょうど燕も暖かい地方から帰ってきた。どことなく花の匂いが漂う夜である。やっぱりあの時だった。
若い細君の靴の紐を、うやうやしく結んでいる男のそばを通りかかって、ロシヤでは見慣れた風俗だが、そのうち俺もやるかもしてん。アリアズナのような女なら、やってもよい。しかし彼女の方でそうはさせまい。逆に俺の靴の紐を結わえてくれるだろう、と相手には得手勝手なことも空想した。
ロシヤ特有の春にそそのかされて、そんなうきうきした心から、ついあんな手紙を書いた。とかく高飛車に出がちな兄嫁に向かって、馬鹿にするな、俺だってのう昔のような子供ではない。いざとなったら、目色、毛色のちがった娘を連れて帰るあてさえないわけじゃないのだぞと、いくらか強い言葉で一本逆襲に及びたい気持ちを押さえかねたのである。
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