『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第十九章・ Amitie かAmour か?==

四月のはじめ、例の本読みの用事で少将邸を訪問して、帰りかけたのは夕暮れであった。公使館に来た電報によると、野元大佐はかねての筋書き通り帰朝する事になった。四月一日附けである。
後任は誰かと思うと、 「吉野」 艦長酒井忠利大佐であった。
野元とは、ロシヤで足掛け三年も一緒に仕事をした。はじめはあんなに意地悪く取り扱われたが、だんだん俺の人柄もわかったと見えて、去年ぐらいから親切になったように思うのは、やっぱりこちらの自惚れだったかな。八代の乾分だと始から決め付けて、ひどく邪魔にした。正義派の加藤寛治が時々見かねて、とりなしてくれたほどである。
軍人のくせに猜疑心がひどく強い。豪傑のように構えていながら、嫉妬心のかたまりである。よく我ながら我慢した。短気な自分にしては珍しい。とんだいい修養だったが、その人はともかくロシヤ語は出来て、ロシヤの事情には通じていた。教えられたところもあった。
それにしても八代先輩の破格の優遇が今更のように身にしみる。あんなに俺を信用して、自分の後任にまで推薦してくれたのだ。あの時は断ったが、今度は四年近くいるのだもの、公使館附武官にされたって、務めを辱めるような事もなかろうし、経験から言っても順当なはず。
それだのに選りによってその人柄は自分もよく知っているが、ロシヤ語も全くできないし、ロシヤにも興味のなさそうな大先輩を、ただ階級が大佐というところから、風采が立派だ、気立てがおっとりしている、外国で修業したと言うような理由にならぬ理由で後に据えた。
どこまで意地の悪いやり方か。もっとも自分は何も公使館附武官になるのを狙って今まで務め上げたのではない。このままの地位で結構だ。もともとそういう心掛けだったのだから、今のままで所期の通りにあくまで勉強し様。田中少佐も駐在員になった。
これでペテルブルグ在勤の駐在武官は三人に増えたが、自分が一番の先任だ。責任は重くなった。田中も 「ネツネツ」 よく勉強するが、加藤大尉とは何でも打ち明けられるような親しさがいよいよ増した。頼もしい奴!。これからは我々三人でしっかり役目を守って、何も知らぬ新任の上官を助けて、日本のために働こう。・・・・・・

四月はじめで未だ復活祭にははいらない。でもなんとなく春めいている。人もそぞろ通る。うかうかと歩いているうちに、いつの間にかネフスキー大通りを、行過ぎてしまった。イタリヤンスカヤの町角からミハイロフ座のそばの公園に入っていたのである。
いつもとちがって、あまり人気がない。今日も暮れた。いろいろな事を考えさせられ、改めて覚悟を迫られる一日だった。
俺としては、国家の為とばかりに考えて、国家のためになりさえすればそれで良いことだと思うてきた。
日本の海軍の為になりさえすればそれで良いことだと思うてきた。
七年前か、六年前か、黄海海戦の捷報を聞いたその後のの日の気持ちが今日とよく似ている。
少年の時、俺は志を立てて海軍に入った。それから十年一日の如く、馬鹿と言われ、頑固と罵られ、愚か者と嘲られ、気狂と陰口をたたかれたけれども、そんな事には一切耳を貸さないで、ただ国の為と、一途に御奉公し、軍人の本分を尽くして、潔く戦場で死のうと考え、その考えに従って、心身ともに修業してきた。
それなのに何と言う武運のつたない事か。94年9月17日、シナとの決戦の当日だって、俺は多寡の知れた運送船の監督なのだ。日本海軍が出来てから始めて出逢った、その好戦場での生死の境をくぐって敵弾の洗礼を受け、思い存分普段の実力を発揮する事は、俺には許されなかったのだ。
なんと言うくやしさ。それはまだいい。普段は役にもたたぬ奴、腰抜け奴めとひそかに思っていた連中が、あの時たまたま 「松島」 に乗っていた、 「比叡」 に乗っていたというただそれだけの理由で、世間に名を知られ、それをいい事にして奴さん達、いやに得意になって手柄話ばかりぶつ。
実情を知っているだけ、こちらは骨身に徹してくやしい。半夜泣き明かした事もある。たしか96年の黄海海戦記念日など、悔しくてよく眠れなかった。俺は武運の神に見捨てられたのか。 今はどこを見ても俗物の成功する時らしい。もともと愚かな俺などが世に出るときは巡って来ないのかも知れぬ。そうと覚悟すれば、気持ちはかえって楽だ。前から信じている 「誠」 の道を一途に守って、周囲はどうだろうと、俺だけは正直に、まっすぐ進んでいこう。・・・・・

ふと見上げると、三日月だった。少年の日に故郷の空で見たのと同じ月だった。故郷の事が思い出された。
忘れているようで気がかりな事があるのだ。この元旦に別府から出した父に手紙の一節に、この頃は疲れ易いとか、いよいよ老年に入ってとか、心細い文字が連ねられていたことだ。くだんの気丈な父とは違っているだけに、ひどく気にかかった。
なにしろ六十を五つも越えているから、もうめっきり衰えたらしい。二月の末、あんまり不安なので、叔父の家の不幸を悼むついでに、父に向かってそれとなく冗談まじりに伝えてもらいたいと頼んだ。
「唯々御摂養ノ上、兄勝比呂ガアドミラル (海軍将官) 、武夫ガ艦長ニテ、目覚シキ働ヲナス迄ハ少クトモ当時ノ御健康ヲ保タレンコト希望ノ至リニ不堪候。
右ハ御庁ノ砌家大人迄御談笑奉願候」
という文句を書いたっけ。どうぞ御健康であってほしいと祈りながら立ち上がった。どうしたのか、右の目がひどく痒かった。

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