ことに極東の時局が、うっかりすると日本とは戦争になるかもしれぬという声がだんだん高まって、これをめぐる議論もなかなかうるさい時だから、社交界に出ても、ただ日本人だという理由だけで、ヘンな嫌疑をかけられがちである。
時々、皮肉や当てこすりを言われる。それを忍ばねばならぬ。そんな時の苦しみは、何とも云いようがない。
ある詩人が 「良雄宴遊ハ豫譲呑炭ニ均シ」 と日本やシナの古事をひいた一句を、今我が身にひきくらべて、始めてなるほどと合点した時もあった。
もしこちらにあらかじめ見るところがなく、期するところがなければ、どうしていつまでもこんな不自由な異郷に残って、こんな女どもを相手にして、しみったれたことに心を使うか!いやだ、いやだと考え出すと、急にロシヤが何もかもいやになって、一日も早く日本に帰りたくなる。
あの山、あの河、あの人が目の前に出てきて、普段は忘れているふるさとの美しさが、急にたまらない魅力で迫ってくる・・・・。
こんんあ環境の中にいるからこそ、(広瀬は思い返すのだった。) せめて俺に好意を持って、接してくれる幾人かのロシヤ人には、こちらからも他人扱いはすまい。時にはうるさい事、いやな事があっても、それは我慢しよう。苦しい事も楽しい事と考えて、いずれそのうち、この勤めが美しい結果を生む時を待ってみよう。こんなふうに考えねばならぬとは、俺の今の境遇も我ながら哀れなものだと、思わず笑いがされた。でもこれは覚悟の前だ。予想していたよりもはるかに親切な知り合いが何人か出来たのだから、俺のロシヤ生活はやっぱり幸福と思わねばなるまい・・・・・。
フォン・コヴレフスキー家の人々を思うと、この印象はいよいよ強くなった。二月末の日付でトーキョーの姉がよこした手紙では、自分に好意を持っている令嬢たちのことを感づいたと見えて、武夫さんは独身だから、なおさらもてるのよという一句があるのに気付いた。
そんなものだろうかとも考えた。でも、ペテルブルグに在留している日本人の多くは、独身者と自分からふれこんでいる連中ばかりである。ロシヤ人の目には、どの日本人も若く見えるものらしい。そういう点になると自分などは、別にもててるわけでもない。日本にいた頃の取り扱い方を思い出しても、妻帯者以上にもてたという経験はない。どっちかというと、一般よりは、冷遇されたほうだろう。
一度、ナガサキで宴会があった時、酒がまわって座が乱れて、けしからぬ、芸者のやつが、冗談だろう、あなた、可愛い方とか何とか言いながら、おれの頭をなでようとした。お祖母さんでさえなでたことのないおれの頭を。
「汚らわしい奴」 とどなって、やにわにその手をひっかついで、座敷の真ん中に投げ飛ばしてやったっけ。あの時、一座は大騒ぎだったが、ことによると、あいつめ、冗談めかしておれに言い寄ったのかな。万一そうだとすると、おれの過去におれに好意を持って近寄ろうとした女は、あの芸者一人だということになる。
日本人でさえそうだもの、西洋の女など嬉しくも何ともない。
「エルネスト・シモン」 号でヨーロッパへ渡る時も、真っ赤な髪の毛をした女どものずうずうしいのには呆れ返った。これから先何年かああいう奴らの中に入って暮らすのかと思うと、安とも言えず気色が悪かった。
それがロシヤへ来てから、いつの間にか変わった。さすがに貴族や、中以上の家庭の娘は、なかなか品が良く、おれも感心した。もっとも、ロシヤは東洋に近いから、女の気立ても東洋流で、やさしい素直な連中が多いのかも知れぬ。
ロシヤだって広い意味の西洋だから、中には妻帯者と独身者とをはっきり区別して、持て扱いを別にする婦人や令嬢もいるころはいた。そうすると、やっぱりおれももてたのかな。
八角時計が笑ったような、エンマ様が怒ったような、いいや、頬髯顎鬚を剃った鐘鬼様が八髯ばから生やしたような、こんな面構えのおれにだって、女には好き嫌いがあるようだ。一体おれはどんな女が好きなのかと考えるともなく考えてみると、アッタ。アッタ。あの画ハガキの女だ。
角力の春場所にちなんで、新しい番付や四十八手の図解を、姉はこの間送ってきてくれた。かねて 「時事新報」 の角力欄を喜んで読んでいたから、贈ってくれたものも一読してみると、思わず力瘤がはいってきた。
好き嫌いはあると見えて、まだ見ぬ力士ながら、理屈なしに贔屓にしたのは、常陸山である。
正々堂々として、しかも豪快な取り口が気に入った。その消息を伝える時、使った画ハガキの女がとてもいい。そう、日本の婦人を描くとなると、妙な顔とヘンなキモノにしてしまうが、あの画ハガキだけは気に入った。まあ上出来だろう。こんんあものがおれの好きなタイプなのか?、そう思うと、姉には見せたくなったので、
「御一覧ノ為特更ニ此端書ニテ御礼申上候。三月廿日武夫拝」 として、その女人像を送った。
姉は人の心を読むことが素早いから、折り返して、武夫さんがお帰りのときは西洋館を借りておきますから、西洋人の奥さんを連れていらっしゃいと書いてきた。アブナイ、アブナイ。
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