こんな次第で広瀬は女にも触れず、女にも親しまず、女の事も考えないで、暮らしてきた。
家庭の躾と、武士道的教育と、体質の特性ガそうさせたのである。こんな貧弱な体験では、若い女の微妙な心の動きなど、到底理解できないだろう。
良家の若い女は、兄嫁によってはじめて知った。色は浅黒いが、目鼻立ちの整った人である。育ちもいいし、教育もあし、それに何より利巧だった。広瀬よりは一つ年下だが、人生の知恵にかけてはとても太刀打ちできず、文字通りの
「姉上」 だった。細かいところまで心を使って、よく世話をしてくれる。ことに金は思い切りよく使い果たす性質の広瀬の経済を案じて、無駄使いを戒め、貯金を勧めてくれる。ありがたい姉だが、男女関係になると、明治の中流階級の人らしく、きわめて厳格に考えて、女性は娘か、妻か、母か、三種類のカテゴリーしか持っていない。
「愛」 とか 「恋」 とかいう言葉は、姉の家ではタブーだった。
いくらか女のことで苦しんだのは、妹の身の上を聞かされたときがはじまりだ。六つ違いなので、妹が年頃になったとき、こちらは海上生活を送っているし、しみじみ話をする機会がなかったから、若い女の目覚めを見ていたわけではない。兄妹思いの性質だから、影ながら無事で暮らせと祈るだけだった。
男の子に対してならそれでもよいが、明治の日本の女は哀れである。幸せになるのも、不幸になるのも、嫁ぎ行く人の人柄と才能と境遇とにかかっていた。
嫁いだ妹は、不幸であった。放蕩者の夫に苦しめられて、八十九年の春には家に帰ってきた。病を持ってだ、という。その辺の便りをロシヤで聞かされた時、彼は胸が一杯だった。前後策を考えると言っても、万里の異境に居てはどうにもならぬ。仕方がないから、しばらく父の手許において、落ち着かせる。兄も自分も遠く離れていて父の世話は出来ないから、代わりに父を大事にせよ。決して暗い気持ちになって、親の心配を増すような事があってはならぬ。これだけをロシヤの兄の言葉として聞かせて欲しいと、故郷の人に頼んでおいた。
そんな言葉の他には何もしてやれなかったのが口惜しい。
女には無縁の彼も、こんな訳で九十九年の春から、女の運命というものを身近に考えるようになっていたのである。
ロシヤに来て、目色毛色の違う女を見た時、遠洋航海やフランス郵船の食堂で一緒になった西洋の婦人達の事を思い出して、これはかなわにと思った。
たしなみがない、遠慮えしゃくがない。ずうずうしい。これが女かとあきれたのが、日本の風習の中に育った広瀬の西洋婦人観だった。留守居の婆さんや、語学を学ぶ家庭教師に対しては、はじめから女としては見ていないから、気は楽だった。大蔵省の役人の妻とか、ロシヤ海軍大佐の夫人とか、中以上の階級の奥様連から、彼はいやでも女の世界に接触せねばならなかった。
日本と違って、喜怒哀楽ははっきり示す。いい時はいいが、ほんとに困る時がある。夜会や、客間では西洋婦人の常としてデコルテをみると、半裸体である。日本人の風俗からいうと、ずいぶんおかしい。さすがに上流の令嬢はあでやかで、品格もあり、赴きもあった。
マリヤ・オスカロヴナや、アリアズナ・ウラジミロヴナが盛装して、大きな扇子を持って現れてくる時など、まるで画に見た西洋のフェアリー
(仙女) のように、ゆかしい好もしい感じがした。
こうして広瀬はロシヤで初めて、女の世界に立ち交じった。若い女の雰囲気と生活を知った。さびしいたびの暮らしの中では、たしかにそれは明るい事に違いなかった。しかし努力せずして、そうなったのではない。彼は実によく勤めた。色々骨も折った。時にはうるさいと思うこともあったくらいである。
ことに女性が中心となる社交界に出入りする時の気苦労は並み大抵ではない。上流社会の夫人たちや令嬢達は、はじめはお世辞もいいし、お愛想もいいが、少し付き合うと、たちまち我儘で、高慢で、横柄な人柄を露出する。
こちらが円転滑脱な才子ならいざ知らず、本来武骨一遍な熱血男児の広瀬であるから、もとよりうまくいくはずはない。それがあちこちに遊弋して、面白くもない音楽や、遊戯や、談話や、ダンスにもお相手申しあげ、仏頂面を隠して、面白そうに対応しなければならないのである。時には顔色を変え、席を蹴って立ち去りたい時にも、微笑して、心にもない言葉を口にして、どうやらその場をにごすという一幕もあった。
こんな心づかいは、他の人ならいざ知らず、広瀬武夫ともあろう者にとっては、あの苦い苦い規那をのみほすよりも、もっとつらい事だった。
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