話を聞いているうちに、彼女は今まで見たこともない、聞いたこともない、全く別の世界の中に息づいていた。
熱に浮かされたように体がほてついていた。その人のただ一筋の祖国愛にうたれたのである。それは一つの国民の魂を信じて、それに帰依している男の信念だった。
ヨーロッパ人はパトリオティズムというフランス語でこういう気持ちの一部を言い表すが、それがこの世におけるこの人のたった一つの尊い目的になっているのだ。その祖国愛から一切のものが出てきて、一切のものがそこへ帰っていく。その祖国愛から、この人は内面の統一をみつけたのだ。
この人の語る言葉は、この人の行う行為は、この人の祖国の上に根を据えている。この人は自分の外にある或る何者かを信じぬいている。信念の人だわ。信念を持っているから強いのよ。これが
「鉄の男」 なのでしょう。
それは恋する女性の直感だった。男の本性を見抜いたと信じた時、彼女は耳までほてって、顔は美しく紅潮した。
何のためにわざわざ訪問したのか、あらためって言えといわれても答えられない。ただ逢いたいから、というだけではどうにもならぬ。話を聞いて、そのそばにいる時は、楽しみでもない、悲しみでもない。ただ夢のように時が過ぎて行く。気が付くと、意外にもう遅かった。
わけもわからずに来たのだと言う正直な答えにケゲンそうな顔をしているその人を、その見慣れた部屋の中に残して帰ってきた。
何だか雲の上を歩いているような気がする。家に戻ると、心がうつろだった。アリアズナはそれから時々暗い顔をして、一日中黙っていることがあった。ミハロイフ大尉が来ても、あんまり大事にしない。ウラジミールスキー中尉には返事をしないと時もある。
相変わらず書物を持って、広瀬が訪問にくる。父の部屋に入って、話をする。真面目に説明を聞く。質問などしている気配もする。父はやさしく解き明かす。二人の打ち解けた笑い声が時々聞える。仕事が終ったと見えて、客間に出て、家族一同とお茶を呑む。その席に出るアリアズナは、もう昔のように無邪気ではなくなった。口数も少なくなった。ふと物思いに沈みがちになった。ただその人をじっと見ていた。からだ全体でみていた。
その後の広瀬は少しも変わらない。今までと同じ様に暖かで、親切に付き合ってくれる。彼はこうした若い女の心を、その急激な魂の目覚めを、じつはよく知らなかったのである。
広瀬はこの年三十三になっていた。普通の日本人なら、女性の体験もしかるべくあって、女性の取り扱いも、ある点までは可能なはずである。しかし広瀬はちがう。女、とくに若い女のことにかけては、まだ年令は六つか七つであった。いま新しい生活に目が覚めて、おずおず周りをを見回して、注意深く行動するだけなのだ。この場合でも、アリアズナの様子がケゲンなのに後で思い当たって、いろいろ考えはした。何か家庭に面白くない事があって、ふらりと出て来たのかと推測した。
急に目覚めた女の心が一途に自分を求めて、思うように意思表示の出来ないのにいらいらしているのだとは思いも及ばなかった。
三十三にもなって何といううかつだろうかと後の日には思い当たる節があったが、その日は未だ相手の本心を直感していなかった。
アリアスナは何とかして自分の本心を広瀬に伝えたいと思った。思い込むと夢中になる。一途になる。でも周りの人々の眼が怖い。思い切ったことも出来ぬ。考えている時は、どんなことでもやってのけられそうに思う。現実は、しかし、彼女の空想を容易に圧倒した。
生まれてはじめての体験だから、どう処置していいかわからないのである。今までなら自由に話せたのに、この頃はその人が来てもヘンに体がこわばって、今までにように何事も思い存分口にする事が出来なくなった。
立ち居振舞いも前と違う。誰の事も嫌になって、時々自分の部屋に引き篭もる。一人でいて、ちっともさびしくない。あるとき少将夫人が何気なくのぞいてみると、机にもたれてすすり泣いていた・・・・・。
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