さすがに知識階級は違っている。スペランスカヤ嬢にしても、その次にロシヤ小説を習った女教師にしても、ペテルブルグ大学生にしても、教育を受けているだけ品があって、こちらと通ずるところがある。
彼等はほとんどかかとのないクツをはいて、音もなくすべるように歩く、着物を着るときには、左の腕を垂直に上げて袖の中に通す。このあいだに、右手で右の袖口を見つけるために手さぐりしている。
食事は大変家庭的だ。スペランスカヤ嬢のところへは何回か招かれたことがあるのでよくわかる。ただロシヤの知識階級の女性は、みだしなみのない、まryで男みたいなのが多いし、頭に詰め込まれた学問は、こなしきれない読書の上に基礎を置いているような気がして面白くなかった。
ペテルブルグ大学の学生も話をしていると、その気質が女教師たちと似ているのがよくわかった。
ロシヤ文明そのものが西イーロッパの影響を受けて今のようになったから、外来文化を詰め込みすぎて、それを消化しきれないでいるのだ。
下層民だと迷信という形で出るロシヤ人の性質は、インテリの場合、哲学や形而上学に向かわせる。それを理解しきれないから、その結果抽象的な考えだけに満足して、現実から遠ざかる。
ロシヤのインテリが日常を尊ぶ実際精神を重く見ないで、現実生活をバカにしているのは驚くべきほどだった。
広瀬はいつかベルリンで聞いた林中佐の意見を思い出した。
かなりな地位にいるドイツ人だって、朝は一杯のコーヒー、三きれのパン。昼はパン一かたまりとお茶だけですまし、夜七時ごろまでせっせと働いている。
聞けばロンドンの人々のように気楽な真似は出来ぬとことわって、ほんとに質素な暮らしで金を貯めている。無駄なところには一文も使わない。あんな質素で倹約な暮らしをしていたら、ドイツの日常生活が堅実に発達するのもうなずけると林は語った。そんな風な堅実さはロシヤの中には見られない。ロシヤ人はもっと怠け者だ。
やっぱりフォン・ペテルセン博士や、のち近附きになったパヴロフ博士の一家はよかった。
彼等は正直だし、心がやわらかで、立派なモラルの持ち主だ。人にも親切だ。コヴァレフスキー少将やフォン・ニーデルメルレル大佐の一家と付き合っても、深い友愛を感ずる事が出来た。日本から来たというような差別はしない。自分らを信じて、愛しいるのを直感して、あふれんばかりの愛情を返してくれる。
人間が人間に足して感ずるやさしい心持を、ロシヤ語ではグーマンノストという。その言葉の信義を、広瀬ははじめて感じる事が出来た。一言で言うと彼等はけちくさくない。鷹揚である。何代かのジェネレーションが積み重ねた豊かな生活の特性ガ、こういう暖かい心をいつの間にかつくり上げたのだろう・・・・。
上層階級の生活の中に入って、広瀬が最も打たれたのは子供の躾であった。
みているとシリをたたいたり、殴ったり、肉体的な刑罰を与えることを一切しない。子供に対しては、どんな手だてをつくしても苦痛を与えまいと心遣いをしている。ごく小さい時から、子供の願いは何でもかなえてやろうと思っている。だから子供はのびのびと育つ。
子供は自分がこの家の中心だと考えているから、思い存分に生きている。
こうした事実は明治最初期の厳格なストイシズムで育った広瀬にとっては、大きな掲示であった。
外国に来て故郷の便りを受け取るごとに、親類の子供達の成り行きを知らされるごとに、子供の家庭教育のあり方について、彼は深く反省させられた
(1900年12月5日)。
ロシヤ風の子供の取り扱いは、衝動を抑え得ないエゴイストを生む危険があるから、一概には良し悪しを決められないのだが・・・・。
広瀬のロシヤ人理解も、駐在三年目、1900年前後になると、ぐっと深まった。
あの憎らしい老媼の行為も今ならわかる。彼女は教育がないから、主人が忘れて使わないものは自分のものにしていいと考えたのだ。主人の忘れているものは自分のものにしていいと考えていたのだ。他人のものと自分のものとを老媼はいっしょくたにまぜて考えている。周囲の習慣がそれを許している上に、彼女はそれを恥とする道徳的訓練を受けていない。
大蔵省の役人だって似たりよったりである。下っ端役人というものは厭な退屈な仕事ばかりさせられている。だからウソは平気になっているのだ。
ワイロが普通なことはみんな知っている。国家が多数の官吏に充分な給与を与えないのだから、ワイロでも取らないかぎり、暮らせない。国家の費用をちょろまかす方法は、いくらだってある。それはもう公然の事実だ。
郵便局などでも、窓口係りは差出人から必ず心づけをせしめる。一月たつと、それがしかるべき金額になるのである。そこで祭日や祝日には郵便局長に贈り物をする。これはいつまでもこの窓口係に任じて、心付けをもらえるようにさせてもらいたいという下心からなのである。
旅券を出したり、裏書をしてもらったりする時には、必ず相手に握らせる。すると何時間も我慢強く待っている人々を差し置いて、すぐ処置してくれる。
こうしたやり方が上から下まで広く行き渡っているのである。誰一人これを不思議に思っている者は居ない。
ロシヤでは、国家の事業が個人的な関係で処理されるのだ。これがロシヤの組織の根本にあるものなのだ・・・・
そうとわかれば、こちらもロシヤ人同様にふるまえば、事が迅速に進む。そう悟ると、広瀬のロシヤ生活は、ロシヤに着いた直後のように、すぐイライラしたり、憤慨したりしなくなった。
1900年秋の手紙には 「春風暖処ニ逍遥スルノ趣」 があると書いたが、これは上流社会との私交の趣を形容した言葉である。
しかしこういう快感の根底には、広瀬がもうロシヤ人の生活の中に溶け込んで、ロシヤ人一般のような気持ちで暮らしていたということもあった。むろん、日本海軍の将校である位置を忘れてはいない。忘れてはいないが、気持ちは楽なのである。だかr広瀬も大分変わったと言うような噂が何処からともなく飛んで、故郷にいる昔気質の父がいくらか心配した手紙をよこすと
「武夫一身上ノ事ニ於テハ向後共毫モ御配慮被下間敷又如何様ノ事有之候共今日迄ノ武夫ト御信用アリテ行動共充分ニ御信用ヲ置レ度候。マサカ飛ンデモナキ頓間ナ事モ致ス間敷候」
(1900年11月10日)
と言い切ることが出来た。
広瀬のロシヤ理解は、いよいよ本格的なものになってきた。ここまで入れたのだから、せめて、後一年半はいたい、留学の目的もその時果たせると心密かに思っていたのも、広瀬一個人の気持ちからいうと無理はないのである。
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