『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第十六章・広瀬のロシヤ研究 ==

ロシヤ政府の公表する年報もあまり信用が出来ぬとなれば、どうしても足で歩いて実物を見たり聞いたりせねばならぬ。そこで広瀬はヨーロッパ・ロシヤを縦横に旅行した。
ペテルブルグを本拠にして、ポーランドも、バryト沿岸も、フィンランドも、中部ロシヤ、南ロシヤも。カフカズも、クリミヤも、彼はひとわたり歩いてみた。1900年代の日本海軍士官としては、少なくともロシヤに関する限り大旅行家であったといえうおう。
そのために彼の用いた案内記の類は、今も残っている。
「ペテルブルグ」 、「カヴリロフの 「モスクワ案内」 (1898) 、「カザン案内」 、ヴィドリックの 「ヒーエフ案内」 (1897) モスケーウィチの 「カフカズ案内」 (1899) 、「ワルシャワ案内」 、「セヴェストーポリ近郊 」 (1894) ヴォルガ案内」 (1899) 「クリミヤ案内」 などをひらけば、彼が曽遊の土地は彷彿としてあらわれてくれるだろう。
1899年夏、南ロシヤを歩いた時携え持っていた 「ロシヤ地図」 と 「鉄道チズ」 とは、今も豊後竹田の広瀬神社に残っている。
1901年に出たセミョーノフの 「ロシヤ地誌」 は、彼にロシヤの地理的全貌を教えるに役立ったと思われる。

地理を探り、地形を考え、地相を案じ、ロシヤの自然を我が目で見ながら、ロシヤ人と付き合って、ロシヤの風俗と人情にふれながら、彼はロシヤ海軍の研究と調査に打ち込んだ。
広瀬が縦横に歩いて見学したロシヤ研究のうち、特に重点をおいたのは、水陸の運輸、鉄道、橋梁、港湾の施設や設備の状況であった。
海軍将校としての訓練と任務の上から当然の処置であったろう。とくに、海軍関係の軍港、要港、造船所、兵器製造所のあり方、特徴、長短所などに、彼は精通していた。
ロシヤの軍港は、二種類に分かれる。ペテルブルグ、クロンシュタット、ニコライエフ、ロバウの四つが一等軍港。レヴェリー、スヴェヤボルグ、セヴァストーポリ、バクー、バツーム、アストラバードが二等軍港である。
前者には鎮守府が置かれ、後者には要港部がある。要港部とはいっても、バツームとバクーとは大したものではない。カスピ海の根拠地アストラバードだけは見学しなかったが、広瀬は他の軍港と要港とは全部その眼で見、その足で歩き、その頭で判断してきた。これは駐在武官の本務とはいえ、よく務めたものと言わねばならぬ。ペテルブルグ海軍工廠、ガレルニー造船所、バルッチク造船所、クロンシュタット工廠などは、十数回以上見学している。セバストーポリ工廠、ニコライエフ造船所は一度見ただけであるが、オボーフスキーやイジョリスキーなどペテルブルグ近郊の水雷艦艇を専門に造る私立工場や造兵廠は、何度か繰り返して見た。その設備の整不整、技術の優劣、規模の大小は、1900年春、英、仏、独の造船所や工場を見学して得た知識と比べて、十分に判断できるようになっていた。

ただ軍艦は、建造しているところを見せて、せいぜい進水式に立ち会えるだけだったのがくやしい。1898年の夏、クロンシュタット居住を願い出ても却下されるほど、ロシヤ側は、日本海軍の諜報を恐れていたから、軍艦に乗せて、艦隊勤務を許可するほどの雅量は持たない。
例えば 「ペレスウェート」 の進水式にあたっても、一通り公表されたその要目を見せられるだけである。排水量は12.674トン長さは436フィート、巾は71.5フィート、後尾吃水27.25フィート。武装は45口径10インチ四門、砲廓に45口径6インチ速射砲十門、艦首砲台に45口径6インチ速射砲一門、両舷に3インチ速射砲12門、小口径速射砲十二門を積む。
水雷発射管は艦首、艦尾にそれぞれ一門、水中に四門。機関は三段式で三十個のベルヴェル水鑵式。石炭はふだん1千トンぐらいだが、最大量は2058トンまで積める。防禦はロシヤ製のハーヴェイ鋼を用いて、水線附近を9インチの厚さでおおう。甲板には4.5インチの保護が全長に施されている。砲台と下甲板を守るのは6インチのハーヴェイ鋼だ。艦首砲には防御をほどこさない。射角上、ただ前方にだけうてるので、両舷には用いる事が出来ない。

この艦型を広瀬は、そのころ浮んでいた最大の戦艦 「ポルターワ」 級に比べて、長さだけは、はつかに大きいが、攻撃力も防御力もおちるということを感じて、八代と話し合ったことがある。 「ポルターワ』 は純然とした戦艦だが、 「ペレスウェート」 はフランス風の戦艦と巡洋艦とを兼ねた混合種だ。19ノットという速力だけは、普通の戦艦より速いが、武装は弱い。いずれ極東に派遣されるというから、 「浅間」 を仮想敵にして設計したのかも知れない。しかし 「浅間」 の進水は、 「ペレストウェート」 よりほんの少し早いだけで、同時に起工しているから、おそらくそうではあるまいと思う。 「敷島」 戦えば、分は明らかに日本側にあると八代は断言した。設計図で想像すると、見た目に美しいし、石炭もたくさん積めるし、とても感じのよい艦になりそうだ。なりそうだが、いざ実践となるとどんなものか。なにしろこうした新式艦には乗せてくれないから、ほんとのところは見当がつかない。
ロシヤ軍艦といえば、十一年前、下関で海防艦 「ラズボイニーク」 を見せてもらったことがあるだけだ。こちらの 「天竜」 と同じくらいの大きさのスループ艦で、古ぼけて見えたから、大したこともあるまいとタカをくくっていたが、中の装備はなかなか立派で、見かけによらぬ手強さだった。ボートなどは少しもかざらない。ちょうど小雨が降っていたが、天幕も張らない。水兵の服装も無造作で、笑えば笑えと、なりふりをかまわない。それにひきかえ、日本側は、ボートの手入れもいいし、天幕は張し、士官には敷物をそなえるし、ただ外観を嗤われるのを恐れているように見えた。よく言えば、こちらは開化、むこうは野蛮と名づけようか。だが、実戦になるとはたしてどんなものかとひそかに案じたが、今度はその逆である。

コンスタンチン・ミハロヴィッチ・スタニュコヴィッチといえば、1861年の兵学校出身で、軍職を退いてから、文筆で立ち、70年代のインテリ文学の代表者の一人だった。 「海軍小説集」 というのは、帝政ロシヤ海軍の生活を描いているというので、93年版を買って、読んでみた。なるほど生々とその内外両面が目に浮ぶ。それだけ一層広瀬はロシヤの軍艦に乗りたいが、許可してくれる気配が無い。それどころか、ロシヤ海軍の組織でも、技術でも、ちょっと聞くだけですぐ顔色を変えるくらいの警戒ぶりである。ロシヤ海軍の諜報部といえば、世界一だといわれるほど、何もかもよく探知していて、ほかの国々の暗号なぞは、ラクラクと解読する。各国公使館づきの武官は、職掌柄この情報を集める事が任務の一つだから、逆に日本側の駐在員に対して出来るだけそうした便宜を与えまいとするのは当然ことである・・・・。

八代中佐が紹介して、海軍省軍務局の課長フォン・ニーデルメルデル大佐や、キリル・ドブロトボルスキーなどのところは時々出入りした。彼等の初めのもてなしは冷たいものだった。その家を五、六回も訪問したが、いつも留守である。答礼にはよほど遅れてからやって来た。それが97年末から様子が変わった。98年春になると、大佐の一家──夫人や令息とも親しくなって、昇天祭には贈り物を持っていった。
とにかく満足していることは明らかだった。しまいにはほんように親身にナッいぇ、向こうから色々な事を教えてくれた。将官級でも、セヴァストーポリでセルゲイ・チュルトフ中将に謁見した。アヴェラン中将や、マカロフ中将は礼儀的に知っていた程度である。がいして誰も親切だった。ただある一定の所までいくと、急に口をつぐんでしまう。仕方がないから、書物で知識をあさる。
スクリャギンの 「1890年ロシヤ艦隊事情」 、大型本で大変詳しい図解のある 「ロシヤ水雷艇構造」 (1893) レールの 「陸海軍百科図解」 (1883) 「世界海軍年鑑」 (1901) のような軍事専門書を備え付けて、事ある毎に開いてみる。史跡を歩いても、たとえば、プロトポポフの 「セヴァストーポリ攻囲及び防禦記」 を買って、その説明や批評を聞いて考える・・・・。
こんな間接な知識でも、とにかく少しづつはわかってゆく。でも靴をへだててかゆきを掻くといううらには残る。何とかしてもっと深くわかりたいものだと、広瀬は眼を光らせていた。

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