『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第十六章・広瀬のロシヤ研究 ==

留学生として、駐在員として、絶対にものにせねばならぬのはロシヤ語である。読み、話し、書く。この四つの能力は、しかし、容易に到達できない。英語のように少年の頃から学んだ語学は、現地へ行けば、すでに根本がしっかりしているから、比較的早くものになるが、ロシヤ語のように、もともと英、仏、独とは系統を異にして複雑な国語は、まったく初学から修めるのと同じだから、少なくとも三年や四年は留学しなければ、どうにもならぬ。
広瀬は真面目な誠実な人だから、98年秋、八代から公使官付武官に推薦されても、実力不足を感じて、どうしても引き受けなかった。当然な辞退であった。それが99年秋の頃から積極的にこちらからロシヤ語で話しかける自信がついてきた。その旨を東京の兄嫁に知らせると、褒めてくれたのは嬉しいが、心密かに目標としていたものに比べると、その三分の一くらいしか果たせていなかったのは、恥ずかしかった。
1900年初めには、その力がぐっとついた。99年の秋、知り合いの家に出入りするのがもう楽になってきたことは、彼自身も人に伝えているくらいだから。
要するに、一年ごとにめきめきと進歩し、学力も幅がつき深くもなった。真面目に打ち込んだ努力の結果なのだから、当然と言わねばならぬ。

広瀬が持っていたロシヤ語の書物は、彼の死んだ後兄勝比呂から、東京外国語学校に寄贈された。
それは彼のロシヤ語所蔵本の全部ではないまでも、その主要部であったろうと思われる。同じ時葵文庫に寄贈され (後東大図書館に移管され) た 「広瀬武夫蔵書」 の旧印あるロシヤ語本をそれにあわせて考えると、彼のいわゆるロシヤ語研究の実態の輪郭が見当ついてくる。
彼はどんなふうにロシヤ語を学んだのだろう?。
まずスペランスカヤ嬢からこの言葉の初歩を学んだ時、用いたものはウシンスキーの 「幼年の友」 (読本初歩) (1894年) 、スミノフスキーの 「少年用ロシヤ文選」 (1894) などであった。つづいて、マトウェフの 「ロシヤ語書取り文典、初級用」 (1898) 「二、三年用」 (1897) やプツィコウィチの 「ロシヤ語小文典」 をも、あわせ参考した。

こういう初歩の読本や文典をかなりものにした時、彼はクルイローフの寓話集を学んだ。げんに初学用の註解付きの版本が残っている。
ロシヤに着いて間もなく、ピョートルが築造させた 「夏公園」 の子供の広場に立っているクルイローフの銅像には心を引かれた。台石に色々な動物の浮彫りが出ているので、あれは何を表しているのかと聞くと、この人の寓話をお読みなさいとスペランスカヤ嬢に勧められた。
ナポレオンだのアレクサンドル一世だの、ヴィアナ会議だの、その時代の風刺がたくさん入っている。そんなところは注釈を開いてはじめて合点するが、やはり面白いのはロシヤ民族の魂がよく出ていて、機智も正義感もあふれるようにもられていることだ。
言葉は上品ではないが、強くしかもしなやかで、どこかにロシヤの土の匂いがする。なかにも 「デミヤンのウハー (スープ) 」 は、食べ物の話だけに広瀬は身につまされて、川上のことなどを思い出しながら苦笑した。
註解を見ると、言葉ばかり多くて客扱いが良すぎ、かえって相手に迷惑をかけているデミヤンとは、クルイローフが同時代のある有名な詩人をあてこすったものだと書いてあったが、そんな考証はどうでもよかった。民族の知恵が、いくらでも拾い出せる珠玉のようにさえ思えた。彼は時々この集を開けて、二百篇の短い話のあちこちを暇に任せて拾い読んだ。

書物は正確に読む。一語一句もわからないところがあると徹底的に追求する。アレクサンドルフの 「露英辞典」 (1878) 「英露辞典」 (1891) は、日本にいたときから使っていた。ライプッチヒ版の小型 「露英・英露辞典」 は、ペテルブルグで求めたものである。ふだんは、スヴォーリンの 「日用図解辞典」 (1898) や、クリューシュニコフの 「百科事典」 三冊などを座右において、あきらかでないものの説明を求める。
クフチンの 「詳解海事辞書」 (1894) 、アンドレエーフの 「ロシヤ語術語辞典」 (1899) などは海軍将校に専門的なものとして、必要あるとき参考していた。
古代語にぶつかると、ティヤシェンコの 「スラヴ語辞書」 をひいて、その意味をたずねる。要するに、ロシヤ語の書物を読むとき、彼は正確を志して、いちいち根拠を求め、各種の辞書類をそなえて、丁寧に読んだのである。

スペランスカヤ嬢の後に、98年秋、宮中付きの僧侶の娘だという、宿の女主人にロシヤ語を教えてもらった。その後には99年の春から、ペテルブルグ大学の学生を一人呼んで、ロシヤ語の文章を書く稽古をした。隔日にやって来てくれる。ウラーノフの 「ロシヤ語手紙範例」 (1891) は、大変役にたった。ラマシュゲヴィッチの 「ロシヤ語正字法辞典」  を求めて、時々自分から自分のロシヤ文の間違いを正してみる。
その大学生は、歴史と政治に関する書物も読んでくれた。かなり勉強したろうと思うのに、歴史や政治の書物はいまあまり残っていない。グリゴローヴィッチの 「近代史」 があるだけである。まさかこんな筈はないと思うが、あるいはロシヤとい国に対する史的知識を、ふつうの歴史書のように簡単な図式の中に概念的知識を注入しようとするものから得ようとはせず、いま生きている現実を通して学ぼうとしていたと推測してもよいのかもしれない。げんに彼が愛好するロシヤの英雄にしても、ペテルブルグでピョートルの小屋を実際に見て深い感動を与えられた後、レーベデフの 「ピョートル大帝」 (1890) を読み、正確な歴史的知識をたたみ込んでから、更にクルイローフの 「史劇ピョートル大帝」 をあわせ読んで、芸術的な形象さえ思い浮かべようとした痕跡もある。

政治も、時事的問題という意味では新聞が一番良い教材だ。新聞は 「ノヴォエ・ヴレーミヤ」 をとった。記事は精錬されているし、面白く読まれる。フランスの 「フィガロ」 をまねたものだそうだ。 「ノヴォスティ」 はノトヴィチの編輯しているもので、ひどくマジメな調子である。
雑誌は98年から 「週刊ニーワ」 をとった。この週刊誌の文芸附録 (12冊) は、今も尚残されている。スタレスヴィチの編集する 「ヨーロッパ通信」 は自由主義の機関紙で、大きな勢力を持つといわれているので、時々覗いた事がある。

十八世紀以来ロシヤの上流社会の用語であるフランス語の必要は、八代中佐から力説され、自腹を切って98年春から始めた。八代が立ち去る前後は三ヶ月ほどやめていたが、99年9月からまたとりかかった。まったく始からやり直したような気持ちだった。もちろんロシヤ語のようには打ち込んでやらない。教材の一部にはフランス語の新聞 「ジュルナル・ド・セント・ペテルスブールグ」 をつかった。フランス政府の御用をうけたまわっていると言うが、語学の稽古にはさしつかえない。

99年6月からの南ロシヤ旅行は、広瀬の語学力を、ぐんと上げた。いやでも話さなければならないから、むちゃくちゃにしゃべっている。ペテルブルグに帰ってみたら、ヘンに力がついて、自信が湧いていた。夏八月の中頃には、それに元気づけられて、一人の女教師に毎日来てもらい、主として会話など、実地練習にいっそう力を注いだ。
この辺から彼の語学はものになり、教材も変わり、内容も充実してきた。九月以降はロシヤ文豪の小説を読む。プーシュキンやゴーゴリやツルゲーネフやトルストイを使う。ぐんぐん読み飛ばして、大意をとりながら、筋をきいたり、登場人物の意見を述べさせたり、その見方を批評させたりする。
この教師もスペランスカヤ嬢と同じ様に、かなり品位がある。親切な人で、一時間づつという約束だったのに、きっと一時間半も授業をしてくれる。こちらも熱心にやるから、両方の気合が乗り移って、どちらも満足だった。
要するに、99年秋からは、ロシヤ語教師男女二名、フランス語教師一名、あわせて三名から学んだ。勉強が度を過ごしているように見えるかもしれないが、それは杞憂で、ロシヤ小説を種にして話をするのはそれほど苦しくもない。むしろ面白かった。

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