(通 釈)
諸君はご存知のことだろう至誠無比、死んで忠義の鬼となって国を護ろうとする菅原道真公の霊魂が、今なお大宰府の天拝峯に留まっていることを。
また、これも先刻御承知のことだろう、憂国の至情いかんともなし難く、ついに、石をふところに汨羅の淵に身を投じた楚の屈原であったが、その屈原を弔う五月五日の行事は、かの中国のみか、わが国にも連綿と続いており、だれ一人として投身の行を哀しみいたまない者はいないことを。
屈原にしても道真公と同じく、侫人輩に讒言され、大臣の職を追われ、国の前途を懐い、日夜焦心憂苦、顔色憔悴、形容枯稿、死を決するに至ったのであった。
昔から姦侫の徒が忠臣を讒言しておとしめることは、よくあることだが、忠臣というものはただ君を思い、自分の事は顧みないのである。
自分も国家の前途を憂慮するあまり、咎を受け、自由を拘束される身となった。獄舎に繋がれ、今更に偲ばれるのは管・屈原の忠節である、悲憤の涙が胸を濡らして流れて止まない。
だが、恨みがましいことは一言も洩らすまい。たとい、讒言のために、ここで生命を落とすとしても、後の世の人は止むに止まれぬ忠誠の念から発したものであると、公正な判断を下してくれる事であろうから。
○囚中作==獄中にあっての作。
○忠鬼==忠義に死して神となったもの。忠節に死し、神となって祭られた霊魂。
○菅相公==菅原道真をさす。
道真は醍醐天皇の時、右大臣となったが、その治世の延喜元年、藤原時平 (871~909) に讒せられ、大宰府権帥 (ダザイフゴンノソツ)
に左遷され、同三年配所で没した。 時平の死去の際、道真の祟りとの説が流布され、その霊は村上天皇の天暦年間、北野に祀られ、天満天神とあがめられている。
○天拝峰==福岡県筑紫野町にある山の名。道真が大宰府に流された時、この山に登って京都を望み、伏し拝んで無実を天に訴えたところから、後にこのように呼ぶに至った。
○懐石投流==五月五日は屈原が湘水 (ショウスイ) の汨羅 (ベキラ)
の淵に身を投じて死んだ日とされる。この忠貞の詩人を哀惜する人々の感情は深く、端午の節句の粽 (チマキ)
にしても、ペーロンと呼ばれるボート競走にしても、屈原の霊を慰めることから始められてものと伝えられている。
○楚屈平==戦国時代の楚の忠臣。姓は屈、名は平、字は原。
戦国時代最も強大な国が秦であり、次が斉・楚であった。各国は蘇秦 (ソシン) の合従
(ガッショウ) 策を用い、一致団結、連合して秦に当たっていたから、さしもの秦もなす術がなかった。
だが、秦は張儀の連衡 (レンコウ) 策を用い、各国の撃破にかかった。先ず対象にされたのが楚の懐王で、斉との同盟を破棄するならば、秦の商於
(ショウオ) の地六百里四方を割譲するといわれ、屈原が諌止するのも聞かず、この誘惑に乗ってしまった。後に欺かれたのを知り、後悔するが既に遅く、秦に幽閉されて客死する。屈原は懐王に仕えたが、讒言にあって用いられず、懐王が客死し、ついで頃襄王が即位すると、籠絡されている?尚
(キンショウ) らの讒言に遭い、追放され、日夜江畔に放浪するうち、国運がますます衰退していくのを焦心憂苦、ついに汨羅の淵に身を投じて死んだ。純潔至誠、多情多恨の情熱の詩人でもあった。
○汨羅江==湖南省湘陰県の湘水の渕。屈原が身を投じたという事から屈潭 (クツタン)
とも呼ばれる。
昭和維新を断行せんとした青年将校の詠になる 「日本青年のうた」 の一節にも、 「汨羅の渕に波騒ぎ、巫山の雲は乱れ飛ぶ、混濁の世に吾立てば、義憤に燃えて血汐涌く」
とある。巫山は汨羅に近い山。
○讒間==讒言して人と人との仲を裂くこと。
○貶謫==“貶” も “謫” もともに罪を得、官位を下げられ、地方に流されること。
○幽囚==獄屋に囚われること。囚は人が囲いの中に入ったさま。拘禁されること。
○憶起==想い起こす。しのぶ。追懐する。
○涙沾胸==涙がとどめもなく流れて胸元を濡らす。悲しみの情の深いさま。
○議論公==公正な評価が自分の行動に対して与えられること。年月を経て後の世に適正な判断をされること
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(解 説)
元治元年 (1864) 政治体制に関し、天皇親政か、幕藩体制維持か、公武合体かをめぐり、風雲急を告げていた頃、尊攘討幕派の行動を抑えよ、との藩命を受けて上京した晋作が、その説得を果たさず、そのまま亡命した罪を問われ、京都から長州に呼び戻され、野山の獄に投ぜられた時の作。
この時、晋作は二十六歳、はって讒言の為に窮死した菅原道真と中国の屈原のことを回想し、みずからの忠節の心を詠じている。
晋作は文久元年 (1861) 九月、藩命を受けて、幕府の船に乗り、上海に渡り、海外の事情を視察、文久二年七月、帰国した。その海外視察の体験から攘夷が不可能な事を感じていた。だが、帰国した時には事態は思わぬ方向に発展していた。
その頃、長州藩は公武合体を周旋していたが、攘夷派の急先鋒久坂玄瑞の建白により、藩論は攘夷に一変する。
こうした折り、晋作は玄瑞と合流、外国人襲撃を決意する。そして、一度は藩主毛利教親の子、定広の説論を受けて中止したが、その年の十二月、ついに品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちする。
文久三年にはいって、長州藩の攘夷運動は尊王攘夷運動に枠を広げ、玄瑞らを中心に猛運動を展開した。
幕府が朝議に迫られ、五月十日を攘夷決行の期限とすると、その日、長州藩は下関を通過する米船を攻撃、ついで二十三日、仏艦やオランダ艦を砲撃した。だが、六月初旬、米・仏両艦の報復攻撃を受け、死者は七、八百人に及んだ。玄瑞は、その戦況を報告、各藩を攘夷に踏み切らせようと努力する。
そのうちに朝廷から毛利親子いずれか一人上京するよう指示が出た。晋作は、その頃長州にあって、兵力増強のため奇兵隊を組織していた。尊皇攘夷の運動も着々実っていく感じだった。
だが、その夏、京都で政変が起きた。いわゆる “八月十八日の政変” である。薩摩が会津と結び、皇居を固め、公武合体派の公卿を呼び、攘夷派の公卿や武士
(長州藩士など) は一人も皇居へはいれない。翌日、三条実美・三条西李知ら七人の攘夷派の公卿は長州藩士に守られて “都落ち” した。このため、吉村寅太郎、平野正臣らの勤王武士も悲惨な運命をたどることになった。
これから約二ヵ月後、十月三日、薩摩の島津久光は兵一万五千を率いて上洛、福井の松平春嶽、伊予の伊達宗城、土佐の山内容堂らが顔をそろえ、さらに一橋慶喜も加わって、公武合体に関する参与会議を開いたが、意見は必ずしも一致しない。
京都に残っていた玄瑞らは、朝廷の意見を覆す機会を狙っていた。翌元治元年一月、福井の水天宮の祠官、尊攘討幕の急先鋒の一人真木和泉らが京都進撃を計画、長州藩でも此れに呼応、来島又平衛らが進撃を開始しようとしていたが、長州藩では、
「ここで、ことを急ぐ必要はない」 として、晋作にその説得を命じた。
晋作は藩命を受けて説得に赴いたものの、来島は京都の情勢を考慮に入れて応じない。そこで、晋作は、 「それでは京都へ行って久坂・桂らに意見を聞いて来る」
と言って、そのまま京都に飛んだ。この時玄瑞も 「参与会議の行き詰まりによって、事態は遠からず長州に好転するだろう」 と藩主に申し送り、進撃を中止させている。だが、晋作は無断で京都に飛んだことから罪を受け、その年の三月、長州に呼び戻されて、野山の獄に投ぜられた。この詩は、その時の獄中の作である。
(鑑 賞)
晋作は、わが国の歴史上の人物の中でも、ひときわ目立つ天衣無縫の天才児だった。
文武の道によく精通し、また、進取の気性にも富んでいたが、時には無茶もやり、乱暴もしでかした。酒もよく飲み、芸者遊びもよくし、芸者の膝枕で
「三千世界の鳥をころし、主と添い寝がしてみたい」 と歌うほどの粋人だった。
だが、彼の一生を貫いた行動規範は忠節であり、孝行であり、士道の遵守であった。
この詩には、彼の行動規範の最も大きな要であった忠義の心がよく表れている。野山の獄中にあって、彼がいかに国の将来を考えていたかに思いを致さなければなるまい。
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