(通 釈)
ここ宗谷岬に立って眼前に展開する宗谷海峡の樺太を隔てて広々とした階上にたちこめる風ともやで一望際涯なき風光に接すると心も自ら哀愁に駆られそうである。
この窮北の断崖の嶽頭に図らずも
「見るたびに 憂ひぞまさる わが為に　曇りて隠せ 樺太の島」
という一首の短歌を刻んだ岩を見つけたことよ。
この歌の作者は、明治八年の樺太千島交換条約に対し反対の立場を取っている同憂のい士であり、当時のわが方の貧弱な国力をもってしては、北方の脅威を避けるために、やむなく列強の勧めの通りに樺太を抛棄せざるを得なかった外交上の恨事に対しては、今なお悲憤慷慨の念を禁じ得ぬものがあり、この歌辞の悲壮な調べは読むに忍びぬものがある。 彫られて二十年くらい経ったと思うが、風雨に曝されて文字も摩滅してはいるものの、さすがに筆力の逎勁さを留めている。
それにつけても草莽山沢にはこんな人物がいてくれて国家の前途に対する深慮を明らかにして世人を警醒してくれていることはありがた。
江湖 (世の中の義、ここでは在野の人士の義) には一体何人がこのように人並み優れた憂概を抱いてくれているのであろうか。
北方の空に朝夕重なり合った霧が立ち込めているのだが、どうか私のためには一層た立ち込めて樺太の島影が見えないように遮ってくれ。
本当にこの歌のとおり、見るたびに断腸の思いがまさるのだから。

○樺太州＝＝オホーック海西部にある詩まで、日本列島北端を占め、古くは北蝦夷と称した。 この歌および詩は明治八年に調印された日露国境確定条約により、樺太千島交換条約が成立し、露国となった樺太を望んでの気持ちを詠出したものである。 安政元年の日露和親条約では、千島列島の択捉 (エトロフ) 島以南を日本領、得撫 (ウルップ) 島以北をロシア領とし、樺太は帰属を定めず、従来どおりとしたが、万延元年の北京条約で沿海州を入手したロシアは樺太の軍事的意義を高く評価し、日本人漁民を威圧したため日露両国民間に紛争が頻発した。 当時の駐在英公使パークスは日露衝突がロシアの北海道攻撃を招く事を恐れて日本政府に樺太放棄を勧め、米国公使デ・ロングも漁業権確保と領有権の放棄を進言し、北海道開拓次官黒田清隆も樺太放棄論を唱えた。 一方、明治七年一月、横浜のロシア領事館での外務卿寺島宗則と中日代理公使ウラロフスキーとの会談では、ロシア側は、樺太の領有権を主張しつつも千島列島については執着を示さず、むしろ日本に対して千島近海の北洋漁業の利を勧めた。 同月特命全権公使としてペテルスブルグに赴任した榎本武楊は、約一年間にわたってロシア政府と交渉を続け、翌明治八年五月七日ロシア首相ゴルチャコフを相手に、両国間紛争根絶の為に 『樺太全島のロシアへの譲渡・ウルップ島から占守 (シムシユ) 島にいあたる十八島の千島列島全島の日本への譲渡』 等を内容とする 「樺太千島交換条約」 を結んだ。 ○宗谷＝＝北海道北端の宗谷岬。 ○？ (モウ) ＝＝水の広々としたさま。 ○題詠＝＝前述の “見るたびに” の歌をさす。 ○慨慷＝＝慷慨、いきどおり嘆くこと。 ○歌辞＝＝前記の歌をいう。 ○漫？ (マンカン) ＝＝はっきりしないさま。ここでは碑文の文字がすりへって分別し得ないさまをいう。 ○草沢＝＝くさむら。転じて世の中、民間の意に用いる。 ○遠慮＝＝遠い先まで見通した深い考え。 ○江湖＝＝川や湖。朝廷に仕えず世を逃れた人のいる所の義から、民間・世間の意に用いる。 ○奇憂＝＝世の常ならぬ憂い。 ○朔天＝＝北方の天。 “朔” は北の意。 ○重重霧＝＝幾重にも重なり合った霧。 ○為我深遮樺太州＝＝和歌の 「曇りて隠せ樺太の島」 というのを表現している。ロシア領となった樺太への愛着をいったものである。