せい へい 調ちょう (二)
李 白
701 〜 762

いつ のう えん つゆ こう らす

うん ざんげてだんちょう

しゃ もんかん きゅう たれ たるを

れん えん しん しょう
一枝濃艶露凝香

雲雨巫山枉斷腸

借問官宮誰得似

可憐飛燕倚新粧

(通 釈)
一枝のあでやかな牡丹に、露がやどり、香を凝結させた。美しい楊貴妃を侍らせるわが君に比べれば、昔、巫山の雲雨を眺めて女神に恋した楚の襄王は、いたずらに断腸の思いをしたものだ。
聞いてみたい。漢宮にいる数多くの美人の中で、誰が、この方の美しさに似ているだろう。それはあの愛らしい趙飛燕の、化粧したての美しさにだろうか。

○雲雨巫山==楚の襄王が高唐に遊び、夢の中で巫山の女神と契ったが、女神が去る時、自分は巫山の南の高い丘に住み、朝には雲となり、夕方には雨となる、と告げた故事のこと。
○枉==むだに。いたずらに。承句は、玄宗と楊貴妃に比べれば、楚王と女神の恋など問題にならぬ、の意。
○飛燕==前漢成帝の后、趙飛燕。


(解 説)
花王の牡丹の美しさと貴妃の美しさを詠んだ作品。
三首連作の第二首め。
(鑑 賞)
三首連作の第二首めの作品である。
この詩のポイントは起句にある。牡丹の花を映じているのに、いつの間にか貴妃の姿になってしまう。当時二十四、五歳の艶やかな盛りの貴妃に圧倒されて、 「濃艶」 といってしまったのであろうか。承句の楚の襄王が女神と契ったという色恋は、玄宗にとってはばかばかしいことであったのだろう。このあたりは迫力十分である。
後半の二句は、貴妃と飛燕との対比で表現している。この対比が、後に筆過を引き起こしたのである。奴隷出身の素性の卑しい飛燕と比較するとは何事ぞとの、高力士のつげ口により、足かけ三年で都を追放されることになったのである。

(備 考)
唐代伝奇小説に陳鴻の 『長恨伝』 がある。この作品は、玄宗と楊貴妃のラブロマンスを物語として書いたものである。前半は歴史的事実に沿って書かれているが、後半は民間に伝説化されて語られていた話を文学的に脚色したものである。
また、この作品は白楽天の 「長恨歌」 の姉妹編でもある。なお、この物語を、更に詳しく語っているものに、宋の楽史の 『楊太真外伝』 がある。

趙飛燕について、簡単に述べておこう。
趙飛燕 (生没年不詳) は、漢の成帝の寵愛を受けて皇后になった人物である。
長安の人で、歌舞をよくしたといわれ、飛燕の名は、その身体の軽やかさから名付けられたようである。
『漢書』 の 「外戚伝」 を参考にして趙飛燕を紹介しておく。
趙皇后は、もと長安の女奴隷で、生まれた時には、父母は間引きをしたが、三日の間死ななかった為、取り上げて育てた。大きくなって、陽阿公主の家に属して、歌舞を学んだが、見が軽いところから、飛燕と呼ばれた。
あるとき、成帝が 陽阿公主の家での歌舞のもてなしで飛燕を見て、召して後宮に入れ、大いに寵愛した。
飛燕には合徳という妹があり、これも召されて後宮に入った。許后が廃せられると、成帝は姉妹の父の趙臨を成陽侯に封じた後、飛燕は皇后になった。
その後、寵愛が少し衰えると、変わって合得が寵愛され、昭儀 (皇后のすぐ下の位) を授けられた。
趙姉妹は十数年にわたり、成帝の寵愛を独占したのであったが、ついに子は出来なかった。
紀元前七年に帝は崩じたが、平素健康で持病もなかった帝が死んだのは、趙昭儀のせいと言われて自殺した。趙皇后は皇后になってから十六年目で死罪になった。
後世、李白や王昌齢の 「西宮春怨」 など、趙姉妹のことは、詩によく詠われた。
また、小説に 『飛燕外伝』 や 『趙飛燕別伝』 などがある。