作 者 略 歴
細川 頼之 荻生 徂徠 頼 山陽 乃木 希典 雲井 龍雄
梅田 雲濱 上杉 謙信 伊藤 博文 真 山民 李 白 杜 甫
項 籍 三島 中州 石川 丈山 大江 敬香 駱 賓 王 柴野 栗山
細川 頼之ほそかわよりゆき
1329〜1392
南北朝時代の武将。幼名は弥九郎、また三郎と称した。
姓は源氏、父を頼春といい、足利尊氏に属し、正平七年、四条大宮で戦死した、頼之は頼春の嫡子。
元徳元年三河 (愛知県) に生まれた。人となりは勤厚。読書を好み、和歌をよくし、また禅を修めた。
尊氏に従って転戦し、備中の地にあって、山陽一帯をしずめ、従四位下左馬頭となった。
正平十七年、細川清氏が尊氏の子、将軍義詮に背いたので、これを讃岐の白峰城に攻めて滅ぼし、其の勢いをもって四国を鎮定した。
二十二年、義詮が病んだとき、讃岐から呼ばれ、幼少のわが子義満を補佐するよう命ぜられた。ちなみに義詮は、没するにあたり、義満に対し、「吾汝に一父 (頼之のこと) を残す、その教えに違うなかれ」 といっている。
頼之は義詮の遺命どおり義満を補佐したが、建徳二年八月、年まだ十四歳の義満は頼之の切諫を怒り、その後も頼之の権勢を忌み、周囲の者もまた二人の離間策をこうじるなどしたので、頼之は大功のなしがたきを感じ、天授五年職を辞し、髪をそって名を常久と改め、讃岐に帰った。時に頼之五十一歳。
義満は大いに怒ったが、後深くその功を思い、天中二年、召喚して再び国政に参与させた。
元中七年山名氏清が京都を攻めたとき、義満の参謀として戦い、これを誅した。元中九年三月没、享年六十四歳。
義満は自らその柩を送り、鹿苑院に冥福を祈り、法華経を書写して供養した。
頼之は当時の武将中一頭地を抜いた人物で、文武の道にすぐれ、信仰に厚く、よく足利三代の将軍に仕えて治積をあげ、南北朝合一のために尽力するなど、特筆すべき功を残している。
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ぎゅう らい
1666〜1728
江戸中期の儒学者。名は双松、字は茂卿、幼名伝二郎、通称は総右衛門。これは曽祖父の名を継いだものである。姓は物部、荻生氏である。
寛文六年二月、江戸の二番町に生まれた。先祖は三河 (愛知県) の荻生の人。物部守屋の子孫であるから、荻生を氏とし、物部を姓とする。後に徂徠はみずからこれを約して物氏とし、物徂徠と称した。
またみずから東夷ともいった。これらにより、中国崇拝に過ぎると非難されたのであるが、それが誤りであることはすでに明らかにされた。
先祖の一人に荻生少目という者がおり、初めて駿河から伊勢にいき、北畠家に身を寄せた。その子が徂徠の曽祖父総右衛門である。祖父の玄甫のとき、江戸に来て医を業とした。
父方庵、名は篤 (一説に景明) 、字は宗甫、将軍綱吉の侍医となった。

徂徠は五歳で文字を知り、七歳から林道斎について学び、九歳で詩を作っている。
「竜蛇指下走、珠玉手中生。松樹万年翠、梅花千歳芳」
という詩だが、これは学問の神、菅原道真の廟に捧げたものである。
父方庵が延宝中罪を得て、上総国 (千葉県) 長良郡の二宮庄本能村 (長良郡本納村) に蟄居を命ぜられ、徂徠も父に従って同地に赴いた。時に十四歳であった。この地に居ること十二年、読書に余念なく、『大学諺解』 一冊を研究して講学の端緒を開くことが出来たといわれている。

二十五歳でようやく江戸に帰ることを得、芝増上寺の門前に住んで学に励んだが、家計は貧しく、衣食にもこと欠く状態であった。
このとき隣家の豆腐屋の主人が、毎日豆腐糟を贈ってくれたことに感謝し、徂徠はのちに、これに二人ぶ扶持を贈って報いたという。
そのうちに増上寺の山主の周旋で柳沢吉保に仕え、名声は上がり、将軍綱吉もしばしば吉保の邸に臨んで徂徠の講義を聴いた。
のち、吉保の辞職とともに日本橋茅場町に移り、門弟の教育に専念し、享保十三年正月に年六十三歳で没した。門弟の数はきわめて多い。

徂徠は性豪放、学識博く、初め朱子学を奉じて伊藤仁斎の古学を学んだが、のちに、復古学を唱えた。仁斎が 『孟子』 の性善説をを中心として仁義、道徳を重んじて孔子に帰することを説いたのに対して 『荀氏』 を重んじて礼楽刑政によって先王の道に至るべきことを説いた。
このように徂徠の学は古学における修身の学から経世済民の実学へと転じた。
徂徠は先王の道は万古不変の法則、原理ではなく、特定の時代に聖人が天下を安んずるために制作したものであるとし、これを不変の道とする朱子の説は大変な誤りであるとした。この徂徠の説は一世を風靡した。
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頼 山 陽らいさんよう
1780〜1832

江戸時代後期の儒者。
名は襄、字は子成、山陽の外に三十六峰外史と号した。 通称は久太郎。のち久太郎、徳太郎といった。
芸州(広島県)竹原の人。 父は惟完(号春水)といい、安芸藩の儒者。山陽はその長男で、安永九年(1780)大阪の江戸堀に生まれ、広島で育った。
七歳の時叔父杏坪について読書を始め、十四歳のとき次の詩を詠じ、父の親友柴野栗山をして驚倒させたほど、詩文について天才をもっていた。
十有三春秋、逝者已如水。
天地無始終、人生有生死 。
安得類古人、千載列青史。
この詩を見て、栗山は 『通鑑綱目』 を読むことを勧めた。これが後年、山陽の修史の動機となったといわれる。

十八歳、杏坪に従って江戸に出、叔母の夫尾藤二洲の家に寄寓し、昌平黌に学んだが、常軌を逸するところが有ったので、杏坪に伴われて、帰国した。
二十歳、藩の需医御園道英の女淳子と結婚したが、不行跡が続き、翌年九月、家を出奔して京都に走り、脱藩の罪により捕らえられて二十四歳迄四年間自邸に幽閉され、この間読書と修史に従事し、文化四年(1807)二十八の時、『日本外史』の稿が成った。

文化七年三十一歳、備後の管茶山の廉塾の学頭となって一年余を送る。 三十二歳の時篠崎三郎、小竹親子を大阪に訪れ、その紹介で京都に定住し、塾を開いて教授に従った。 小石氏の養女梨影を娶って家庭を作った。
住居は転々としたが、文政伍年京都の鴨川の西に新邸を営み、これを水西荘または山紫水明処と称した。

文政十年(1827)、『日本外史』を前老中松平定信に命により進献し、盛名一時を圧するに至った。
天保三年九月二十三日病没、享年五十三歳。

著書には、『日本外史』『日本政記』『春秋講義』の他『山陽詩鈔』八巻、『山陽遺稿』十七巻、『日本楽府』一巻、『山陽詩集』二十三巻、『山陽文集』十三巻が有り、その文章は大儀名分を明らかにし、気概に富み、詩もまた人心を鼓舞するに足るもので、明治維新の志士たちに多大の感化を及ぼした。
☆☆ 関連ページ⇒⇒ 「頼 山陽」「頼山陽の歌が聞こえる」 ☆☆
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希典まれすけ
1849〜1912

明治時代の陸軍将官。希典はその名。幼名は無人、のち源三郎、文蔵とも称した。 石樵と号し、他に静堂・石林子などと号した。

寛永2年11月11日、江戸麻生日ケ窪の長州藩邸に、毛利家家臣野木希次の三男として生まれた。
藩邸はその 昔、赤穂四十七士の一部の者が預けられ割腹した所なので、父親は特に四十七士の生き方を武士の典型とし て教えたと言う。

十歳の時、父母に従って長州に行き、漢詩文のほか、馬術、剣術、弓術、砲術を学び、また親戚の玉木文之進 (吉田松陰の叔父)から松陰の『士規七則』や山鹿素行の『中朝事実』などを与えられ、武士としての教育を受け た。

18才で藩校明倫館にはいり、勉学のかたわら一刀流を修めた。
慶応三年、長州征伐の時、高杉晋作の報国隊に加わり、幕軍と戦って足に銃創を受けた。
戊辰の役には東北に転戦して功を立て、明治四年陸軍兵制の確立と共に少佐となり、同八年、小倉歩兵第十 四連隊長心得、九年、前原一誠の乱を鎮定、十年、西南戦争には連隊長として熊本に進軍、三月二十三日、 旗手河原林少尉の戦死により、軍旗を敵に奪われ、引責して自刃する事を決意したが果たさなかった。(これを 終生の恨みとしたことを遺言に書いている。)

同年四月、中佐に進級、熊本鎮台幕僚参謀、ついで歩兵第一連隊長、十八年少将に昇進、歩兵第十一旅団 長、二十五年、病気の為に休職となり、栃木県那須野で静養、のち現役に服し、歩兵第一旅団長となった。

二十七年、日清戦争の勃発により第二軍に属し出征、金州、大連、旅順、営口各地を転戦、二十八年中将に 進み第二師団長となり、戦後、功により男爵を授けられた。
二十九年、台湾総督を命ぜられ、三十一年に第十一師団長となったが、三十四年休職、那須野で農耕生活を 送った。

三十七年に日露戦争が起こった時起用されて第三軍司令長官となり、大将に任ぜられた。
三十七年八月から五ヶ月、旅順総攻撃を指揮した。この時の死傷五万五千。長男勝典は南山に、次男保典も 二〇三高地で戦死した。
旅順陥落後は満州軍を率いて奉天大会戦にのぞみ、三十九年一月凱旋、その後軍 事参議官、宮内省御用掛、学習院院長となった。

四十年八月功一級従二位に叙せられ、九月、伯爵を授けられた。
四十五年七月三日、明治天皇崩御。
大正元年九月十三日、御大葬の当日午後八時、霊輿御出発の号砲を合図に、夫人静子と共に殉死。
享年六十四歳。
「辞世」
うつし世を 神さりましし 大君の
      みあと慕いて我は 行くなり
神あがり あがりましぬる 大君の
      みあとはるかに をろがみまつる
☆☆ 関連ページ⇒⇒ 「乃木希典の漢詩(一)」 ・「乃木希典の漢詩(二)」 ☆☆
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くも たつ
1844〜1870

本名中島守善。号は枕月、居貞。奥州米沢藩士。
少年のころより文武に励み、その学才は早くから知られていた。
二十二歳の時、藩命により出府し、幕府の大儒安井息軒の三計熟に学び、息軒に深く傾倒した。このときの同門に谷干城がいた。
翌年、藩命により帰藩し、時事を講じ、米沢藩のとるべき方向を論じたが、天下の赴くところは自分の論ずるところと異なるを見て、自ら願い出て京都に行く。

ときはあたかも大政奉還の折であった。雲居は薩長連合に横暴ありとして、薩長打倒のため奥州連合を提唱するも思い通りにならず、かえって謹慎を命ぜられる。
幸いにも、翌年、謹慎を解かれ、集議院の寄宿生となる。
そこで、大いに議論に参加するが衆議と合わず、ついに退院しなければならなくなった。その後、安井息軒のもとに出入りし、釈大俊 (後、雲井に連座して逮捕される) と契るに至る。
時機到来と官軍に対し挙兵を企てたが発覚し、米沢に強制送還された後、東京に檻送され、謀反の罪を問われ、小塚原の刑場で処刑された。
ときに二十七歳という若さだった。
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うめ 雲濱うんぴん
1815〜1859

幕末の志士。名は初め義質、後定明と改めた。通称は源次郎。雲濱のほか湖南、東塢まどの号がある。
文化十二年六月七日、小浜藩士矢部義比の二男として生まれた。
文政十二年、京都に上り、若林強斎の望楠軒に学び、天保十一年帰郷、梅田姓を名乗った。
同十二年熊本に遊び、横井小楠・長岡監物などと交わり、同十四年、帰郷して京都に移り、
望楠軒の講主となった。
その間、森田節斎・梁川星巌と親交を結び、頼三樹三郎とも交わった。

嘉永三年、外交のことについて藩の年寄役渡辺権太夫に書面で意見を述べ、藩政についてもしばしば上書したため同年五月、ついに士籍を除かれた。
六年ペルリ来航の折、同志と謀り、吉田松陰とも会議して事を計った。

安政元年ペルリ再来の報を聞き、江戸に赴いて吉田松陰・烏山新三郎などとも対策を練り、水戸の地を訪ねて金子孫二郎・高橋多一郎と語り、さらに福井において村田巳三郎・岡田準介などと政治対策を議し、同年七月帰京。
その年の九月、露艦が大阪湾に入り、京阪一帯が動揺して騒然とするのを見て、藩士鹿野蹇斎に時局の急を説き、帰参を願ったが許されず、大和十津川の郷士たちに推されて海防の一隊を率い、露艦の撃退に向かったが、すでにそのときは露艦は去っていた。

安政二年三月、妻病没。
以後ますます諸藩の志士と往来し、尊攘を策し、同五年、堀田正睦が上京して日米通商条約の勅許を奏請したのを知り、青蓮院宮に書を奉り、勤王の公卿に説き、鋭意奏請の却下に力をつくした。
九月八日、その罪により京都の志士と共に幕吏に捕らえられ、十二月、頼三樹三郎などと江戸に護送せられ、小倉藩邸に預けられ、幕府の糾問も苛酷にも屈しなかったが、脚気を病み、翌安政六年九月十四日、小倉藩邸に没した。
享年四十五歳。
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上杉うえすぎ 謙信けんしん
1530〜1578
戦国時代の名将。本名景虎、小字は猿松丸、又は虎千代。
越後(新潟県)の守護代、長尾為景の二男、享禄三年に生まれた。
上杉憲政の家督を受け、上杉輝虎と称し、関東管領となる。出家して謙信、不思議庵と号した。
幼少の頃から性急で胆力が有り、所信を敢行した。 その反面、学芸を好み、七歳の時から菩提寺の僧について文字を習い、長じて儒者山崎専柳斎秀仙について四書五経・老壮を学び、国学にも造詣が深かった。

二十二歳、朝廷から従五位に叙せられ、上洛して後奈良天皇に拝謁、公家たちと歌道を論じ、将軍足利義輝とも和歌の応酬をなした。
武田信玄が信濃(長野県)に侵入したので、帰国して信濃へ出兵。
前後五回、川中島において戦を交えた。そのうちでも永禄四年九月十日の第四回の戦が最も有名である。
謙信と信玄とが争っているうちに、北条氏康が関東を制圧して上野の平井城の迫ったので、謙信は城主の上杉憲政を奉じて関東に赴き、氏康の本拠小田原城を包囲したが、まもなく囲みを解いて越後に帰り、そののち武田信玄、北条氏康の連合軍を打つためにしばしば出陣し、二年後ついに氏康と和を結んだ。

その間、輝虎の名を将軍義輝から賜り関東官領となってが、転じて越中を平らげ能登に入り、七尾城を陥れ、加賀に於いて織田信長からの援軍を撃破し、いったん帰国して翌春雪解けを待って雌雄を決すべき旨を信長に通告した。
その時が来て五万の大軍を春日山城下に結集して出動せんとしたが、天正六年三月十三日、疾によって急逝した。 行年四十九歳。

謙信は生涯妻帯せず、養子の景勝が後を継いだ。
謙信は戦国時代を代表する勇猛無比な武将であるが、学芸に深く人格高潔で大義名分に明らかであり、さらに政治家としても民生に意を用い、租税を軽くし産業を興し、交通の制を整え、開墾と移民とにより土地の開発と経済の安定を図るなど、その治績には見るべきものが多い。
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とう 博文ひろふみ
1841〜1909
明治時代の政治家。初代総理大臣。
天保十二年九月周防 (山口県) 熊毛郡束荷村に生まれた。幼名利助、のち俊輔と改めた。号は春畝。
安政元年 (1854) 父林十蔵が同藩の軽輩伊藤氏の養嗣子となるに従って伊藤姓を名のる。
家貧しく、十二、三歳のころから他家に使役されつつ、久保五郎左衛門の熟 (後に、吉田松陰によって再興され、松下村塾となる) に学んだ。

安政二年 (1855) 藩の軽率となって浦賀の警備に就役したが、上司来原良蔵に才能を見込まれ、交替して帰国する際に、来原は、吉田松陰に紹介状を書いてくれた。
松陰の門下となった博文は急激に勤王の精神が高まり、来島の義兄に当る木戸孝允に従って東上し、諸藩の志士と交わり、また、同門の高杉晋作、久坂玄瑞らとともに、文久二年 (1862) の御殿山英国公使館焼き討ち、国学者塙二郎 (保己の子) 暗殺に加わった。
同三年士分にとりたてられ、井上馨らの英国留学の一行に潜入して渡英。
半年後、馬関における外国船砲撃の報に接して、急ぎ帰国して、攘夷の無謀であることを説くが、逆に刺客に狙われた。
慶応二年 (1866) 、第二次長州征伐が始まると、石州口に奮戦し、長崎に往来して、武器や汽船の調達に尽力した。

明治元年 (1868) 、明治政府に徴士参与として出仕し、五月兵庫県知事、翌三年七月、大蔵少輔兼民部少輔に転じた。同四年十一月、岩倉具視の欧州巡遊に従い、六年七月帰国。
西郷らが、征韓論が容れられずに下野した後をうけて参議となり、十年、西南の役後、功により勲一等旭日大綬章を授けられた。
十一年五月、大久保利通が暗殺されて、内務卿を兼ね、国会開設および財政問題で大隈重信と対立し、十四年、大隈を退けて政府の実権を掌握した。
十五年三月、勅命によって憲法制度調査のため外遊し、帰国後、制度取締局長、宮内卿となり、制度改定に従事し、十七年、伯爵を授けられた。

十八年、清国と天津条約を結び、十二月、太政官を廃して内閣制度を創設、初代の内閣総理大臣兼宮内大臣となった。
井上馨を外務大臣に起用し、不平等条約を改正する手段として欧化政策を推進した (いわゆる鹿鳴館時代) が、保守派の反対を招き二十一年辞職。
それ以前から着手していた憲法草案がようやく完成し、奉呈した。
次いで枢密院議長となり、二十二年二月十一日、欽定憲法が発布された。
この功により、旭日桐花代綬章が授けられ、十月、枢密院議長を辞し、二十三年、国会創設とともに貴族院議長に任ぜられ、二十五年八月、ふたたび内閣総理大臣となる。

二十八年、日清戦争の終結後、下関において、清国特命全権大使李鴻章と談判して講和条約を結び、国威大いにふるった。
三十一年一月、ふたたび内閣首班となったが、進歩党と自由党が憲政会を組織して政府に対抗したため、辞職して、三十三年九月、政友会を組織して総裁となった。

三十六年、詔によって枢密院議長となって、政友会総裁を退く。
三十八年、日露戦争の結果として韓国における日本の実質的な宗主権が認められ、勅命によって日韓条約を締結し、初代韓国統監となった。
四十二年六月、ふたたび枢密院議長に任ぜられるまでの間に、日韓合併の基礎は完全に作られていた。十月二十六日、満州巡遊の途次、ハルピン駅にてロシア大蔵大臣と会見する予定であったが、韓国義兵中将と称する安重根に暗殺された。
六十九歳であった。
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しん 山民さんみん
1274頃
南宋の詩人。 姓名、出身地など詳しい事は判らない。
宋末の遺民で世を逃れ、人に知られる事を求めず、自分で山民と呼んだのでこの称はある。
『四庫提要』は、李生喬 が「乃の祖父文忠西山に愧じず」と称したことから、姓を真と推定している。

また、 『四庫全書簡明目録』には、
「その人迹を匿し声を銷し、実にその氏名を得ず。その詩の源は晩唐に出ず。而して命に安んじ時に身を委ね、一も怨尤の話しなし。志操識量みな及ぶべからず。宋代遺民の第一流か」
と述べている。
一説には本名は桂芳、括蒼(浙麗水県の東南八里)の人、宋末進士に合格すとある。著に『真山民集』一巻がある。
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 はく
701〜762
盛唐の詩人。母が太白星を夢に見て李白を生んだので、それにちなんで字を白太という。また出身地蜀(四川省)の青蓮卿にちなみ、青蓮居士と号した。 出身地については、山東(山東省)、隴西成紀(甘粛省天水県)ともいう。
十歳にして『詩経』や『書経』に通じ、十五歳頃から縦横の術(合掌連衡)を学び、撃剣を好み、任侠を重んじ、財を軽んじ施しを好んだ。

二十歳の頃、礼部尚書から益洲(四川省成都県)の長史に左遷されてきた蘇廷が李白を見て、
「天才であり、もっと学問をしたなら司馬相如比肩する事が出来る。」
といったと言う。
また、その頃、東厳子という隠居と岷山にこもり、奇禽千羽ばかりを飼い慣らして世を送った。

ついで、二十五歳の頃、蜀を出て長江流域地方を放浪し、安陸(湖北省安陸県)で結婚をし、そこに約十年間(二十七歳ころから三十五歳ころまで)とどまった。この間に孟浩然と交わる。
開元23年(735)に安陸を離れ、大原(山西省大原県東北)に遊び、任城(山東省済寧県)に行き、ついで孔巣父・韓準・裴政・張淑明と徂徠山(山東省泰安県東南四十里)に隠棲し、日々酒を愛した。人々は彼らを「竹渓の六逸」と呼んだ。

天宝元年(742)四十二歳の時、都長安におもむき、賀知章に会い、「天上の謫仙人」と称賛される。
やがて賀知章の推挙により、翰林供奉となったが、酒と離れる事が出来ず、常に長安市上の酒家に沈酔しているというふうであった。
だが、詩才は抜群で、あるとき、玄宗が楊貴妃と宮中の沈香亭で牡丹を賞し、泥酔中の李白を召して新楽章を作らしめた所、たちどころに「清平調」三章を賦した。

天宝三年(744)高力士の讒により、宮中を追われ、以後約10年間、各地を漫遊し、名山大川を遍歴しているが、この間に、杜甫や高適と遇い梁宋(河南省)の地を旅し、互いに詩を賦したりした。
至徳元年(756)玄宗の子永王が安禄山討伐の軍をおこし、李白は請われてその幕僚となったが、永王は兄粛宗の命に従わなかった為、反乱軍とみなされ、至徳二年(757)永王の軍は丹陽(江蘇省丹陽県)で官軍に敗れ、永王は殺され、李白は捕らえられ尋陽(江西省九江県)の獄に繋がれた。
そして死罪となるべきところ、郭子儀は、昔太原で死刑に処せられるのを李白に救われた恩に報いようとし、おのれの官爵をもって李白の罪を購わんと講たので、減刑されて夜朗(貴洲省桐梓県)に流される事になった。
巫山(四川省巫山県東三十里)まで来た時、乾元二年(759)の大赦にあい、罪を許される。


その後、金陵(江蘇省江寧県)に遊び、宣城(安微省宣城県)、歴陽(安微省和県)の間を往来し、当塗(安微省当塗県)の県令であった季陽冰を頼り、そこで病死した。
宝応元年(762)李白六十二歳であった。
『李太白集』三十巻がある。

李白の詩は自由奔放、天馬空を行くが如く、また才気煥発、変幻自在で、詩仙の称にふさわしい。特に道徳思想の影響が強く、任侠精神の反映も看取され、浪漫主義的傾向が強い。絶句、歌行が得意である。
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712〜770
盛唐の人。 李白とともに唐代最高の詩人である。
字は子美、少陵と号した。襄州襄陽(湖北省襄陽県)の人。
祖父は初唐の詩人杜審言である。 だいたい三十五歳ぐらいまで、呉・越・斉の間を遊歴しているが、この間に李白・高適と交わり詩を賦したりしている。
また、進士の試験を受けたが及第せず、長安で困窮の生活を送った。
天宝十年(751)「三大礼の賦」三篇を奏上して中書省集賢院の待制に任ぜられたが、官位は与えられなかった。
天宝十四年(755)四十四歳のとき、ようやく太子右衛率府冑曹参軍となり、さっそく奉先県(陜西省蒲城県)に疎開させておいた家族を見舞う。
そこで安録山の反乱に会う。
翌至徳元年(756)、霊武(寧夏省寧夏県の東)で即位した粛宗のもとに参じようとして賊軍に捕らえられ、長安に軟禁されてしまう。
翌至徳二年、賊軍から逃げた杜甫は粛宗に拝謁し左拾遺に任ぜられたが、宰相房カンの罪を弁護したことが、粛宗の逆鱗に触れ、その翌年の幹元元年、華州(陜西省華県)の司功参軍に遷されてしまう。
まもなく職を離れ、漂泊に身となった。上元元年(760)剣南節度使の厳武に招かれ、工部員外朗となり、成都(四川省成都県)の郊外にある浣花渓に草堂を建てて住んだ。
この時期は、杜甫の一生のうちで比較的平穏であって、竹木を植え、酒を飲み、詩を歌い、農民達と往来するといったふうであった。
永泰元年(765) 厳武が死に、蜀の地が乱れたため、また貧と病に苦しみながら、四州・湖北・湖南の地を流浪し、大暦五年(770)耒陽(湖南省耒陽県)で不遇のうちに生涯を終えた。
著書に『社工部集』二十巻がある。
杜甫の詩は、雄渾・沈痛・憂愁・忠厚の意に満ちている。詠ずる内容は多様豊富であり、特にヒューマンな正義感、人間愛に基づいて、暗黒な現実社会を直視し、それを客観的に描写したところから「詩史」と称され、後の白居易ら社会派詩人に多大な影響を与えた。
また音調は非常に鍛錬されている。杜甫はあらゆる詩形に通じ、ことに律詩と古詩を得意とした。
律詩の対句には定評がある。李白の「詩仙」に対し「詩聖」と称される。
また杜牧と区別して杜甫を 「老杜」 杜牧を 「小杜」 という。
※※関連HP→→→『詩聖・杜甫』※※
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こう   せき
紀元前232〜202
秦末の武将。字は羽、楚国下相(江蘇省宿遷県の西北七十里)の人。
若い頃、文字や剣術の勉強をしたが、中 途でやめてしまった。
叔父の項梁が、それを怒ったところ、項羽は、「文字は名前が書けるだけでよい。剣術は 一人の敵を相手にするだけでつまらない。万人の敵を相手とする術を学びたい」と言った。
そこで項梁は項羽 に兵法を教えてやると、大いに喜んで学んだが大体を知るとそれもためてしまった。
長身で鼎を持ち上げるほど の力があり、才気は人に過ぐるものがあった。
秦の始皇帝が巡行してきたのを見て、「あいつに代わって天下を 取ってやる」と叫び、同行していた項梁があわてて口をふさいだという。
始皇帝が死んだ翌年の七月(紀元前209)陳渉らが反乱を起こすと、項羽は叔父の項梁と共に兵を起こした。
楚 の将軍であったから、多くの人々が項羽のもとに集まった。
紀元前207年、項羽は秦を滅ぼし楚王を尊んで義王とし、自らは西楚の覇王と称して天下に号令した。
しかし、 力に頼り、義帝を殺すなどの乱暴な行いをしたため、劉邦が反旗をひるがえした。
かくして、項羽と劉邦の戦いは五年にわたって続いたが、機知に富んだ部下を集めていた劉邦のために、項羽 はついに垓下に囲まれてしまった。
いったんは囲みを破って鳥江まで逃げたが、ここで自分で首をはねて死ん だ。三十一歳であった。
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しま なか しゅう  
1826 〜 1915
幕末から明治大正時代の漢学者。
名は毅、字は遠叔、幼名は貞一郎、中州は号である。
備中 (岡山県) 中島村の人、代々庄屋の家であった。八歳のとき父を失い、母によって養育された。
十四歳で、松山藩 (岡山県) 藩儒であった山田方谷に就いて学んだ。
方谷の学問は、実用性を重んじるものであるが、中州は、かなりその影響を受けた。
学ぶこと九年、伊勢の斎藤拙堂の門下に入った。拙堂は、文章によって知られていた。拙堂の門下にいること四年にして郷里に帰ったが、藩主板倉候は、中州の賢なるを知って優遇し、江戸の昌平黌遊学の命を下した。
江戸では安積艮斎、安井息軒、藤森天山といった当時、名儒と謳われた人々を訪れ、中州の学問は、ますます進歩を加えた。
文久元年 (1861) 、ふたたび松山藩に帰り、藩学の有終館の学頭となった。
このとき、藩主板倉候は幕府の老中となり、幕政に参画することとなったが、外には西欧列国の開国要求があり、内には尊皇攘夷論が盛んになっていたことから、中州に命じて西国諸藩の情勢を探らせた。
維新の際、藩主板倉候は朝廷より罪を得て終身禁錮となったが、中州は力を尽くして老臣を助け、板倉勝弼を後継として藩封を守った。

明治三年 (1870) 、藩主板倉勝弼は、中州を権大参事に推薦したが、固辞して受けなかった。
先王が特赦されると、政府の徴に応じて司法判事となり、累進して六等判事に昇った。
明治十年 (1877) 滔々たる欧化の波の押し寄せる中にあって、漢学の将来に危惧を感じ、退官して家熟を麹町一番町に開設し、庭に二本の松があったところから、二松学舎と名づけて後進の教育に当った。今のニ松学舎大学の前身である。当時慶応義塾、同志社と並んで三大熟と呼ばれた。

のち再び高等師範学校教授、東京大学教授を歴任し、明治二十一年 (1888)、検事に任ぜられて民法を修正し、判事に転じて民法を完成した。
二十九年 (1896) 特命によって東宮侍講となり三十二年 (1899) 、文学博士を授けられた。
同三十三年の東宮婚礼に当って、勲章と金一千円を下賜され、東宮からは、別に御紋章入りの銀盃を賜るという、異例の厚遇に浴した。

大正二年、病をもって辞職するに際して、内帑金一万円を下賜され、これを二松学舎の運営に充てた。
大正四年五月十二日病没。九十歳。
中州の学風は躬行実践を旨とし、いたずらに訓詁詞章を弄ばぬ、質実剛健なものであった。学問は陽明学の流れをくむ。
著書に、『中洲文稿』 (十二巻) 、『中洲詩稿』 (二巻) 、『論語講義』 『荘子内篇講義』 『中洲講話』 等がある。
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石川いしかわ 丈山じょうざん
1583〜1672

江戸初期の漢詩人。名は凹、初名は重之。嘉右衛門と称し、丈山はその字である。
六六山人・凹凸化窩・大拙・鳥鱗・山木・山材・薮里・東渓・山足などの号だ有る。
三河(愛知県)碧海郡の出身。祖父正信は長篠の合戦で戦死し、父信定もまた武勇が高かった。
丈山は若くして家康に仕え、豪勇をもって知られたが、大阪夏の陣に一人密かに軍営を脱出し、敵の首二首を取ったものの、これが軍令を犯す事となって退けられ、浪人の身となり、僅か三十歳で京都に閉居した。
その後藤原惺窩に学び、堀杏庵・菅野得庵・野間三竹などの詩人や文人と交わった。 一時安芸の広島藩に学者として仕えた事が有る。

母が亡くなったので、上職を辞めようとして許されず、密かに京都に帰った。
所司代の朝倉諏周防守と丈山は旧知の間柄だったので、周防守はよくこれを遇し、幕府に再三推薦したが、固辞して受けなかった。
寛永十八年(1641)比叡山の麓の一乗寺村に詩仙堂を造って住み、狩野探幽をして漢・魏から唐・宗に至るまでの詩家三十六人の像を写さしめ、これに詩を賛して長押に掛け並べ、みずから六々山人と号した。

あまり来訪者が多い為、周防守に隠居したいことを請うたが許されず、今より後は決して京に入らないとの意志を和歌で示した。
後水尾上皇がその風操の高いのを賞されて召されたが、かって作るところの和歌 「わたらじな瀬見の小川の浅くとも老いの波たつかげははづかし」 を差し出してお許しをこうた。
再び鴨川を渡らないとの覚悟の程を上皇も嘆美され、二度と召見を強いられる事は無かった。
また、その後どの諸侯からの招きにも応ぜず、寛文十二年五月、九十歳で没した。

丈山は江戸初期の代表的詩人と言って過言ではない。
寛文年間の作者の多くは五山の僧侶の詩風を踏襲するのみであったが、その中に有って一人唐詩を研究し開元・大暦をもって宗となしたのは、卓見とも称すべきである。
丈山は書をよくし、特に隷書にすぐれていた。 また築堤庭にも非凡な才能を示した。
著書に正続『覆醤集』、『詩仙詩』、『北山紀聞』、『東渓翁隷法』等が有る。
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おお 敬香けいこう
1815〜1917

明治・大正の漢詩人。名は初め十太郎、のち幸之。字は子琴。中村敬字を慕い、その許可を得て敬香と号す。別号に楓山・愛琴。
安政二年十二月、徳島藩士大江孝文の長男として、江戸八丁堀に生まれた。
人柄は謹厳・聡明。天付賦の詩才を持ち、幼くして『唐詩選』を暗記するなど周囲を驚かし、神童と呼ばれた。
長じて、郷里粟阿波に帰り、藩校修文館に入り、漢文のみならず、英・独・仏の三カ国語を学んだ。

明治二年、藩から渡英を命じられたが、祖母の反対によって辞退、明治五年、慶応義塾に入り、卒業後、共立学校幹事となり、東京大学古典科に入学、理財学を専攻、病の為中退。
当時、浜松に在住の父のもとに身を寄せ、療養生活を送り、明治十年、掛川の岡田良一郎の家塾<驥北舎>の教師となり、多数の知名人を育てた。

明治十一年、静岡新聞主事となり、この頃から本格的に詩作活動を始めた。
十二年、岡山に赴き、山陽新聞主幹、ついで神戸新報主筆として健筆をふるった。
神戸では、新聞編集のかたわら、清国領事官廖錫温について漢詩の造詣を深めた。

この後、上京、大隈重信によって改進党結成の動きが起きると、これに参画、党務をとった後、参事院御用掛となり、在職四年、同院廃止に伴い、華族会館に入って政治顧問となる。

それ以後は、漢詩文学の振興に関心を深め、詩文雑誌 『花香月影』 『風雅報』 などを創刊、同好の士と詩文を楽しみ、また、後進の指導に当たった。
大正五年二月、病を得、十月二十六日没、享年六十歳。

漢詩にもっとも優れた才能を持ち、白楽天・陸放翁らの詩風を学び、多くの名作を残している。
最も優れていたのは五言律詩。 著書に 『敬香詩鈔』 (大正五年刊) 『敬香遺集』 (昭和二年刊) がある。
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らく 賓王ひんのう
640?〜684

初唐の詩人。王勃・楊炯・廬照隣とともに初唐の四傑と称される。 七歳にしてよく詩を賦したという。
初め道王の府の属官となり、ついで武功の主簿 (秘書・書記) となる。高宗の末年、長安の主簿となり、しばしば事を上奏したが用いられず、かえって臨海の丞 (判官) に左遷され、不満のうちに志を得ず官を辞した。

その後 徐敬業が則天武后討伐の兵をあげると、それに加わり、徐敬業のために檄文を書き、則天武后の罪を暴いて排斥した。
武后はこれを読み、
「一抔の土未だ乾かざるに、六尺の孤安くにか在る」
の句に至って賛嘆おくあたわず、これほどの才人を用いなかったのは、宰相の過失であるといったという。
敬業の挙兵が失敗に終わると、駱賓王は行方知れずとなった。
伝説によれば、このとき逃れて僧侶となり、銭塘の霊隠寺にかくれ住み、宋之問が左遷を許されて帰る途中、霊隠寺で苦吟していた際、
「楼には観る滄海の日、門は対す浙江の湖」 の一連を教え、ついに一編の詩をなさしめたという。
その後、この詩は全部駱駝賓王の作だという説も出て、『唐詩選』 には駱駝賓王の名で採られている。

著に『 駱臨海集』 十巻がある。その長編叙事詩 (七言古詩) 「帝京篇」 (『唐詩選』所収) は当時絶唱と称された。
また、「秦塞の重関一百二、漢家の離宮三十六」 「且つ論ず三万六千の是、寧ぞ知らん四十九年の非」 など、好んで数字の対句を用いたので、世人から算博士といわれた。
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しば 栗山りつざん
1736〜1807

柴野 栗山(1736〜1807) 江戸中期の学者。
名は邦彦、字は彦輔。栗山は号、 古愚軒石とも号した。
讃岐(香川 県)高松の生まれ。
栗山の号は郷里の八栗山(香川県木田郡牟礼町と庵治村の間にある標高307mほどの山)から出ている。
幼少より藩儒後藤芝山(名は世鈞)に学び、十八歳の時、東遊して昌平黌に学び、林家の業を受け、貧困と病苦 の中にありながら志を捨てず、学識を深め、かたわら詩文を学んだ。
三十歳の時、京都に出手て高橋宗直に従って国学を修め、三十二歳、阿波の蜂須賀候に召されて儒官となり、 その世子(嗣子)の教育にも力を尽くした。
後、京都に移り家塾を開き、もっぱら朱子学を標榜した。
五十三歳、老中松平定信の推挙を受け、昌平黌の教官となり、大学頭林信敬・岡田寒泉らと共に学制の改革に 努力し、五十五歳、定信に勧め、いわゆる「寛政異学の禁」を断行させた。
寛政異学の禁は、寛政二年(1790)五月に発令された。この禁は、朱子学以外の学問の講習を一切禁ずるという ものであったから、他の学派から多くの反対者が出た。
その主な学者として、伊藤藍田、荻原大麓、市川鶴鳴、 戸崎淡園、村瀬栲亭、亀井南冥、山本北山、亀田鵬斎、古屋豊洲などがあり、中でも京都で栗山と親しかった 赤松滄洲は塚田大峯と共に栗山を論難攻撃して止まなかった。
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