(通 釈)
雲を見れば楊貴妃の美しい衣裳が眼に浮び、牡丹の華を見れば楊貴妃の美貌が連想される。
春風は沈香亭の手すりを吹き抜け、牡丹をぬらす美しい露はあでやかだ。
これほどの美人は、群玉山のあたりで見かけるのでなければ、瑤台の月明りのもとでしかめぐりあえないだろう。
○容==容貌。 ○檻==宮殿の手すり。
○露華==美しい露。
○濃==あでやかで美しいこと。
○郡玉山==玉山ともいう。西王母の住む山。
○会==きっと〜〜だろう。
○瑤台==仙人のいるところ。
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(解 説)
玄宗皇帝が楊貴妃とともに、興慶宮の沈香亭で牡丹の花をめでて遊宴したとき、李白に命じて詠じさせたもの。
牡丹の花の美しさと楊貴妃の美しさを二重写しでとらえた作品。三首連作の第一首目の作品である。
楽府には、清調・平調・瑟調の三つがあって、清平調とはこのうちの清調と平調を合わせたものである。
玄宗皇帝は、梨園の音楽師に命じて、李白の作る詩にあわせて音楽を奏させ、自分は笛を吹き、李亀年に歌わせた。
(鑑 賞)
李白は、この詩を作るときに、二日酔いだったという。開設の項で、三首連作の第一首目の作品と紹介したが、この連作は、花王牡丹の花にことよせて、
「露花濃かなり」 とか 「濃艶香を凝らす」 と楊貴を濃厚に表現している。花を詠っているのにいつの間にか貴妃にかわっている。ここが見どころである。
全体にウキウキした李白の様子が感じ取れる。李白らしくないような気もする。
このころ貴妃は二十四、五歳、妖艶のきわみだったろう。李白もポーッとしたにちがいない。
(備 考)
この詩の逸話を紹介しよう。逸話に関した文献は、正史 (旧唐書・新唐書) をはじめ、 『本事詩』 や 『太平広記』 それに 『松窓録』
などに見られる。ここでは 『松窓録』 を参考にする。
開元年間、宮中で木芍薬が重んじられた。これは今の牡丹である。それには紅と紫と浅紅と純白の四種があり、それを玄宗は興慶池の沈香亭に移植した。たまたま牡丹の花が盛りの時、玄宗は照夜白
(ショウヤハク) という馬に乗り、太真妃は歩輦 (ホレン) で従った。
詔して、梨園の弟子の中から優れたものを選んで、十六部の楽を得た。李亀年は歌によって一時の名をほしいままにしていた。手に紫檀の拍板をささげ、楽人を引連れて進み出で、歌いだそうとしたとき、玄宗は
「名花を賞し、妃子に対いあっているのに、どうして旧い歌詞が用いられよう」 といわれた。
そこで、亀年に命じ、金花箋をもって翰林供奉李白に宣賜して、たちどころに清平調の辞三首を進めよとのことである。白は喜んで旨を承けたが、まおまだ宿酔がさめずに苦しんでいた。苦しみながら、筆をとってこれを賦した。その辞に
“雲は衣裳を想い云々” とある。
亀年が歌詞をささげて進めると、玄宗は梨園の弟子に命じて、その歌にあわせて管弦をかなでさせ、龜年を促して歌わせた。
太真妃は玻璃七宝の杯を持ち、西涼洲の蒲桃酒を酌み、笑って歌詞の意味を解せられた。
玄宗は笛を吹いて曲に合わせた。曲が次に変わろうとするたびに、その音を遅くして、これにつやをつけた。太真妃は飲み終わり、繍巾をおさめて、ふたたび玄宗を拝した。
これにより、玄宗の李白に対する扱いは他の学士と異なるようになった。 |