せい へい 調ちょう (一)
李 白
701 〜 762

くも には しょうおもはな にはかたちおも

しゅん ぷう かんはろ うて こまや かなり

ぐん ぎょく さん とう るにあら ずんば

かならよう だい げつ むか って わん
雲想衣裳花想容

春風拂檻露華濃

若非郡玉山頭見

會向瑤臺月下逢

(通 釈)
雲を見れば楊貴妃の美しい衣裳が眼に浮び、牡丹の華を見れば楊貴妃の美貌が連想される。
春風は沈香亭の手すりを吹き抜け、牡丹をぬらす美しい露はあでやかだ。
これほどの美人は、群玉山のあたりで見かけるのでなければ、瑤台の月明りのもとでしかめぐりあえないだろう。

○容==容貌。   ○檻==宮殿の手すり。
○露華==美しい露。
○濃==あでやかで美しいこと。
○郡玉山==玉山ともいう。西王母の住む山。
○会==きっと〜〜だろう。
○瑤台==仙人のいるところ。


(解 説)
玄宗皇帝が楊貴妃とともに、興慶宮の沈香亭で牡丹の花をめでて遊宴したとき、李白に命じて詠じさせたもの。
牡丹の花の美しさと楊貴妃の美しさを二重写しでとらえた作品。三首連作の第一首目の作品である。
楽府には、清調・平調・瑟調の三つがあって、清平調とはこのうちの清調と平調を合わせたものである。
玄宗皇帝は、梨園の音楽師に命じて、李白の作る詩にあわせて音楽を奏させ、自分は笛を吹き、李亀年に歌わせた。
(鑑 賞)
李白は、この詩を作るときに、二日酔いだったという。開設の項で、三首連作の第一首目の作品と紹介したが、この連作は、花王牡丹の花にことよせて、 「露花濃かなり」 とか 「濃艶香を凝らす」 と楊貴を濃厚に表現している。花を詠っているのにいつの間にか貴妃にかわっている。ここが見どころである。
全体にウキウキした李白の様子が感じ取れる。李白らしくないような気もする。
このころ貴妃は二十四、五歳、妖艶のきわみだったろう。李白もポーッとしたにちがいない。
(備 考)
この詩の逸話を紹介しよう。逸話に関した文献は、正史 (旧唐書・新唐書) をはじめ、 『本事詩』 や 『太平広記』 それに 『松窓録』 などに見られる。ここでは 『松窓録』 を参考にする。
開元年間、宮中で木芍薬が重んじられた。これは今の牡丹である。それには紅と紫と浅紅と純白の四種があり、それを玄宗は興慶池の沈香亭に移植した。たまたま牡丹の花が盛りの時、玄宗は照夜白 (ショウヤハク) という馬に乗り、太真妃は歩輦 (ホレン) で従った。
詔して、梨園の弟子の中から優れたものを選んで、十六部の楽を得た。李亀年は歌によって一時の名をほしいままにしていた。手に紫檀の拍板をささげ、楽人を引連れて進み出で、歌いだそうとしたとき、玄宗は 「名花を賞し、妃子に対いあっているのに、どうして旧い歌詞が用いられよう」 といわれた。
そこで、亀年に命じ、金花箋をもって翰林供奉李白に宣賜して、たちどころに清平調の辞三首を進めよとのことである。白は喜んで旨を承けたが、まおまだ宿酔がさめずに苦しんでいた。苦しみながら、筆をとってこれを賦した。その辞に “雲は衣裳を想い云々” とある。
亀年が歌詞をささげて進めると、玄宗は梨園の弟子に命じて、その歌にあわせて管弦をかなでさせ、龜年を促して歌わせた。
太真妃は玻璃七宝の杯を持ち、西涼洲の蒲桃酒を酌み、笑って歌詞の意味を解せられた。
玄宗は笛を吹いて曲に合わせた。曲が次に変わろうとするたびに、その音を遅くして、これにつやをつけた。太真妃は飲み終わり、繍巾をおさめて、ふたたび玄宗を拝した。
これにより、玄宗の李白に対する扱いは他の学士と異なるようになった。