さん かんしゅう
真 山 民
1274頃


しょく しゅう こう ともいち らん

くまでふう おさ めて かん

きょ えん くす どうかげ

らく すう せい さん げつ さむ
夜色秋光共一闌

飽収風露入脾肝

虚檐立盡梧桐影

絡緯數聲山月寒

(通 釈)
ふけてゆく夜の色と秋の月光とが、欄干を包んでいる。
秋風に吹かれ白露をうけて夜気を心ゆくまで十分腹の中に吸い込み、だれ一人居ない軒端の、あおぎりの影の落ちついているあたりに立ち尽くしていると、今まで静まり返っていたこおろぎが急に泣き出して、山月のいっそう寒いのを覚える。

○夜色==夜の色。   ○一闌==一つの欄干
○風露==秋風と白露。 ○脾肝==脾臓と肝臓。
○虚檐==@高い軒、A立派な建物、B誰もいない軒。
このではB。
○梧桐==青桐。 ○絡緯==こおろぎ


(解 説)
誰もいない軒端に立って、目に映る秋夜の景をありのままに描いた詩。
(鑑 賞)
秋の夜を詠じた詩は多いが、この詩は俗人と異なる隠士山民の面目がおのずからよく表れている。
そのポイントは第二句にある。 「夜色」 「秋光」 「虚檐」 「梧桐」 「絡緯」 山月」 などの語は秋に夜を詠ずる素材として、むしろ常套と言うべきだろう。しかも、やや素材が多すぎる嫌いもある。その常套を破り、単調を救うものが、第二句の表現。
腹一杯に秋の気を収めるという、そこには何の気取りもない。ただこの秋の山の夜に浸りこみ、同化せんとする詩人の姿があるばかりだ。
この句あってこそ、静かにして情緒深い山間の秋の夜が読者に迫るのである。
結句なども、こういう句は普通は嫌味になるものだが、ここではよく一編の趣を引き締めるものとなっているのも不思議である。思うに、山民はあまり細かいことは気にしない、天衣無縫の詩人であったろう。