しょ かい
篠原 国幹
1836 〜 1877


あめ けむり また くも

ひゃく しゅう みだ れてふん ぷん

よう かんしゅう すい いま まさこころ みん

よう じゃそう りょう してこつ くんえつ せん
有雨有烟又有雲

四百餘州亂紛粉

腰闖H水今方試

掃了妖邪謁國君

(通 釈)
雨が降り、霞も立ち込め、また、雲の湧くがごとく、諸方で反政府の戦いが起きて、日本六十余州もいまや乱れて収拾がつかなくなっている。
いまこそ、日本刀のように鍛え上げられたわが精兵を率い、東上して君側の奸を取り除き、天皇に拝謁して、われらの赤心を知っていただくのだ。

○四百余州==元来は中国を指すのであるが、ここでは、日本の仮託とする。
○紛粉==入り乱れて散ること。
○腰闖H水==腰に差した日本刀。
「秋水」 とは、曇りなく澄んだ状態をいう言葉。おそらく、明治七年に設立し、有事に備えて教育した幼年学校および私学校の子弟を、鋭利な日本刀に例えて、このように言ったのであろう。
○妖邪==すでに政敵となっていた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら、征韓論を圧殺した、いわゆる文治派を指す。
一説に鹿児島に下野した西郷の動向に危惧を抱いた政府は、鹿児島出身の警部を数名選抜して、西郷暗殺の蜜名を与えた、と伝えられている。
○掃了==追い払ってしまうこと。
○謁国君==「国君」 とは天皇のこと。天皇に謁して、赤心を知っていただく、という意味である。


(解 説)
明治六年 (1873) 十月、西郷隆盛の征韓論が退けられ、西郷に従って鹿児島に帰った後の作であるが、詩中、四百余州とあるため、中国進出を企図したとの説もあるが、この四百余州とは、日本六十余州の仮託の辞である。
維新以後、新政府による急激な改革は、国民生活に影響を与えたが、とりわけ、不平士族の反政府運動を呼び起こしたのであった。特に、征韓論の唱えられた背後には、国内士族の反政府的気分を緩和する意向が含まれていた。
これが、欧米各国巡回の途から帰った大久保利通らによって退けられた後には、明治七年 (1874) の佐賀の乱、明治九年 (1876) の神風連の反乱、秋月党の反乱、そして、前原一誠を中心とする萩の乱などが続出したのであった。
詩は、明治十年、西郷隆盛を首領として起こされた西南戦争勃発直後の作であろう。題名は心のあるところを書き付ける、という意味である。
(鑑 賞)
「四百余州」 を中国と解するうらには、あるいは、後の日清戦争における 日・朝・清 三国の関係が意識されて、宗主国たる清国が乱れている以上、朝鮮への援軍の派遣は出来ないから、武力によって侵略するなら、今が好機である、との見方が出てきたのであろうが、清国では、折りしも、太平天国の乱を収拾し、同治帝による、いわゆる同治中興と呼ばれる比較的安定した期間が二十年間も続いているのであるから、その見解には無理がある。また、転・結両句と少しく齟齬を生じる。
元来、西郷は征韓論に処するに、 「出兵は国家の大事、まず、使臣を派遣し、反覆折衝すべきである」 との意見で、自ら遣韓使節となることを求めて、閣議もまた、これを認めていたのである。
西郷は、最高機密については篠原国幹とのみ謀議していたのであるから、国幹が、西郷のそのような方針を知らずに独走したとは考え難い。官艦赤竜丸が、弾薬を熊本城に転漕するとの報に接して、はじめて挙兵を決意した経緯を考え合わせると、承句の 「今方試」 の三字が重大な意味を持つことが知られるのである。
一見、意気まことに壮んと感じられるが、比喩の多い、仮託するところの多い詩である。それだけに、悲壮感も際立ってくる。