らん ざんあそ
頼 山陽
1780 〜 1832


清渓せいけい いつ きょく みず ちょう ちょう

みずはさ むのおう かげまた きょう なり

けい しゅう いえ こう

らつ こう ふかところ してしょう
清渓一曲水迢迢

夾水櫻花影亦嬌

桂楫誰家貴公子

落紅深處坐吹簫

(通 釈)
清らかな大堰川が、一曲りして遥かに流れていく。その水をはさんで櫻が花をつけ、流れに映える景色もまた美しい。
この川を美しい桂のかいを使って舟遊びをしているのは、どこの家の貴公子であろうか。紅の花びらの深く積もるあたりに座り、笛を吹いている。

○清渓==清らかな谷川の流れ。ここでは嵐山を流れる大堰川の清らかな流れのこと。
○迢迢==遥かなさま     ○嬌==美しい。
○桂楫==桂の木で作ったかい。また、必ずしも桂の木で作られていなくとも美しいかいをいう場合にも使う。
嵐山では、大宮人以来、舟遊びをしながら周囲の風景を賞すのがよいとされている。
○落紅==散り落ちる花。   ○簫==笛。


(解 説)
文化八年 (1811) 閏二月、嵐山を訪れ、その感慨を詠った詩。
『頼山陽詩鈔』 (巻十一) に 「遊嵐山三首」 と題して収められている中の第一番目の詩である。


(鑑 賞)
青く澄んだ水がめぐり、両岸の桜の影を映す。美しい舟に乗った貴公子が、花びらの積もるあたりで笛を吹く、と、まるで一幅の絵を見るような心地だ。それだけに、ややつくりものめいた感じもしないではない。
ただ、作者のねらいは、作りものを承知で典型的な、 “京の嵐山の春” を描くところにあったのだ。杜甫や杜牧の意匠を借りてはいるが、これぞ正しく、日本の春にちがいない。日本漢詩の美意識が、ここにある。