けい りん そう ざつ えい しょ せいしめ
廣瀬 淡窓
天明二 (1782) 〜 安政三 (1856)


幾人いくにんきゅう うて西東せいとう よりす

りょう ちく そう ぜん ほう

えい れん ちてしゅん ちゅう なが

しょ せい 断続だんぞく して房?ぼうろうひび
幾人負笈自西東

兩筑雙肥前後豊

花影滿簾春晝永

書聲斷續響房?

(通 釈)
ここ桂林荘の塾生になろうとして諸方から集まって来た者の数は、数え切れぬほど多い。
また、出身地も・筑前・筑後・肥前・肥後・豊後 と多岐にわたっている。それら多くの塾生たちが、簾いっぱいに梅花の影のうつる、うららかな春の日の昼下がりにも勉学に励んで倦むことを知らず、読書の声が、あるいは高く、あるいは低く、窓外に響いてくる。

○幾人==数え切れぬほどの多くの人々。
○負笈==郷里を出て遊学すること。
○西東==西からも東からも。転じてどの方角からも、という意。
○両筑==筑前と筑後と。  ○双肥==肥前と肥後と。
○前後豊=豊前と豊後 。
○春昼永==春の日差しが、うららかでのどかであること。
○書声==書物を音読する声。かっては、すべて朗々と節をつけて書物を音読したのである。
○房? (ボウロウ) ==房室の窓。れんじ窓や格子窓。


(解 説)
淡窓が、桂林荘にあって門弟を指導していた時代に、勉学中の諸生に示した詩である。
四首連作のうち第三首である。第一首では、塾での共同生活全般について、第二首では、帰りを待ちわびる老親のためにも、無為に時を過ごさず、一意専心、学問に精励すべきことを説いている。この第三首では、諸国から集まった塾生たちの、読書に余念のないさまを詠う。
(鑑 賞)
心に残る塾生たちの誰はどこの人、彼はどこの人と、数えるともなく数えたのが、起句と承句である。
もっとも、塾生の出身地は、承句に示される六ヶ国にとどまるわけではなく、 「四方の士、争うて其の塾に就く」 とは、篠崎小竹が 『遠思楼詩抄』 の序文に述べた言葉である。
文化十四年 (1817) 桂林荘が手狭になって、十年後には咸宜園を開き、全国六十八か国中、実に六十四か国から集まった塾生の数は、前後四千六百十八人にも達したのである。
外には、春の好風景。内には、塾生の読書の声、これもまた、好風景である。
その (一) が、厳しい冬の朝の身も引き締まる一コマを描いたのに対し、この詩は、春の盛りの午後の駘蕩たる一コマを描く。学園生活の苦楽を、見事に詠い尽くした。また、おのずから教育者淡窓の慈愛溢れる面貌が窺われるのである。