頼 山陽
1780 〜 1832


しょう 乱立らんりつ大涛だいとうかん

まなじりけつ すれば西南せいなん やま

鶻影こつえい低迷ていめい帆影はんえいぼつ

てん みずつら なるところ 台湾たいわん
危礁亂立大涛

決眥西南不見山

鶻影低迷帆影没

天連水處是臺灣

(通 釈)
この阿久根の海は、奇岩・怪石が大波の間に乱立している。目を見張って西南の方向を凝視すれば、大海原が果てしなくも広がっているだけで、一点の山影も見えない。
目に入ってくるものは、海面低く飛び舞う熊鷹のみで、先ほどまで見えていた船の帆影も、いまはもう水平線の彼方に消えている。
その天と水が一線に連なる水平線のあたりこそ、台湾であろう。

○危礁==海中から突き出て高くそびえたつ岩。
○大涛==大きな波。
○決眥==目を見張って見ること。
○西南==東シナ海は阿久根の西南の方向に広がっている。
○鶻==鷹の一種、熊鷹。 ○低迷==低く徘徊すること。


(解 説)
「阿嵎嶺」 は、鹿児島県の西海岸、現在の阿久根市である。阿久根は東シナ海に面し、その海岸は奇岩をもつことで有名である。
山陽は、三十九歳の文化十五年 (1818) 二月、亡父春水の三回忌のために帰省し、父の法要を営み、三年間の服喪が明けるとその足で九州旅行の途につき、九月八日、薩摩 (現在の鹿児島県) に入る関所、野間原の関 (鹿児島県出水市米ノ津) を通り阿久根に着いた。
翌日、牛の浜に出て、その雄大な景色を見て詠ったのがこの詩である。
現在、この地 (阿久根市牛の浜公園) には、この詩を刻した碑が建立されている。
(鑑 賞)
海を詠った詩で、これほど雄大なスケールの詩は少ないであろう。その技巧も遠近法を取り入れて見事である。
山陽の視線は近景から遠景へと移動する。岸辺に立つ奇岩から渺茫たる海の広がりへ、足下を低く飛ぶ熊鷹から水平線に消えた帆船へと移されている。
そして最後に、台湾に目が注がれるのである。無論、実際に見えるわけではないが、水平線の彼方を詠いこむところに雄大なスケールを感じさせるのである。
この詩のように海を詠った詩は、中国では少ない。それは、中国文化の中心が長安や洛陽まど大陸内部であったからであろう。
また、海国日本でも従来あまり詠われなかったのは、やはり中国の詩の影響の下で詩が作られたからであろう。
ここへ来てようやく、日本独自の海の詩が誕生した、といってよい。 「泊天草洋」 と並んで、海の詩の双璧である。