ぜつ めい
黒沢 忠三郎
1840 〜 1861


きょうぞく ぶも ひょうまか

幾歳いくさい妖雲よううん いつ たん

まさおう せつ

さくら 門外もんがい さくらごと
呼狂呼賊任他評

幾歳妖雲一旦晴

正是櫻花好時節

櫻田門外血如櫻

(通 釈)
自分たちのことを狂人と呼ぼうと乱賊と呼ぼうと、それは、他人の評するままにしておこう。
日を遮るあやし気な雲のように、長年の間、幕政をほしいままにしていた井伊直弼を斃した今は、一時に空も晴れ渡ったような気持ちだ。
時はあたかも桜花も咲き乱れようとする大変にすばらしい時節である。
決行の場もちょうど桜田門外、飛び散る血も桜のようであった。

○幾歳==長年。
○妖雲==日をさえぎる雲。天下に立ちふさがる井伊直弼をたとえて言ったもの。
○一旦==一時に、たちまち。
○正是==時はちょうど、時はあたかも。
○好時節==桜の咲くよい時節。同時にわが事成るとする作者の満足感を指すものであろう。


(解 説)
この詩は作者の辞世の詩であろうが、言外に死に臨んで、いまなお、自分の取った行動に愧じるところなく、桜田門外の桜のように見事に散ってゆくと詠っている。
(鑑 賞)
起句には自分の信ずる道を激しく突き進む志士の面目があふれている。まして、積年の恨みを晴らした作者にとっては、満足これに過ぎるものはなく、命賭けの仕事を成し遂げたので、もはや世評など作者にとっては気にかける気持ちは全然ない。
桜の字を三回用いてあるのは技巧としても効果的であるが、同時に桜の潔い散りぎわが、武士に喩えられるように、いま、自分も死に臨んで、満足の中に桜のように見事に散ってゆこうとする心情を託したものといえよう。
二十歳を出たばかりの若者ながら、死に臨んで、大悟一番、むしろ、余裕綽々といった様子がうかがえる。