とう とう じゅ しょ いんよぎ
伊藤 東涯
1670 〜 1736


江西こうせいしょいん くことひさ

じゅう ねん ぜん ほうおし

今日こんにち はじ めてきたげん しょう

とう かげおおきゅう 茅堂ぼうどう
江西書院聞名久

五十年前訓義方

今日始來絃誦地

古藤影俺舊茅堂

(通 釈)
久しい以前から自分も、江西の地に残っている 「藤樹書院」 の名は聞いていた。
その書院は今から五十年ほど前に、近江聖人として世間に評判の中江藤樹先生が、人の履み行うべき正しい道を教え諭された所である。
ようやく望みが達し、今日初めてその昔大勢の弟子達が詩書を誦読していた地に来てみれば、世に名高い藤が、古木となって影を茂らせ、当時のままの茅葺の書院をおおって、今も藤樹先生がそこに居られるかのようで、まことに感慨無量であった。

○藤樹書院==中江藤樹 (1608〜1648) がその生地近江 (滋賀県) の高島郡小川村で教化を垂れ、その跡が村樹書院と呼ばれた。近江の西部にあるので江西書院とも称せられた。
藤樹はわが国における陽明学の鼻祖で、親に仕えて至孝、その徳化はあまねく郷党に及び、近江聖人と称せられた。
○五十年==東涯がこの書院を訪れたのは享保六年 (1721) 、藤樹の卒した慶安元年 (1648) を去ること七十三年であった。従って 「五十年」 は大略の数である。
○訓義方==子弟を教訓するのに正しい道をもってすること。
○絃誦==絃ば絃歌。誦は誦読。中国古代において琴に合わせて書物を朗誦したので読書、学問のことをいう。


(解 説)
東涯が藤村書院を訪れて藤樹を敬慕して詠んだ詩。
この詩は 『紹述先生詩集』 に見えないし、藤樹の没後七十三年に東涯が藤樹書院を訪れた事実もわからないが、詩の内容がまことに作者にふさわしいので逸詩として採った。
(鑑 賞)
藤樹は 「陽明学」 を唱え、東涯は 「古学」 を唱えた人であるから、学派の点では相容れぬものがあったと思われる。しかしながら藤樹は林家の学に反対して一家を立て、神儒一致を唱え、国体を明らかにする為に力を尽くした、偉人とも達識とも称すべく、また人格が高く、徳化が深く、いわゆる 「近江聖人」 として名声が四方に聞こえた人物である。この藤樹について、近江に程近い京都に住んだ東涯は、幼少の折から、その人格・識見など聞き及んでいたことであろう。
この詩には藤樹を慕う心が情味豊かに詠じられていて、東涯の人柄もまたしのばれる上品な作である。
起句の 「聞名久」 は転句の 「始来」 に、承句の 「五十年」 は結句の 「旧茅堂」 に応じている。
雅号の由来する藤の木陰は昔ながらに茅堂をおおているが、その人は今は居られない──この一句に作者の感慨が鮮明に描写されている。