しゅう ちゅう
城野 静軒
1800 〜 1873


わた 山崎やまざき はる れんとほつ

けん いてらつ なが

いつ せいつき に在りいつ せいみず

せい じん はん ふね
八幡山崎春欲暮

杜鵑啼血落花流

一聲在月一聲水

聲裡離人半夜舟

(通 釈)
春も過ぎようとするころおい、京都から大阪に向かう、淀川を下る舟中から見渡すと、かなたの山は天王山か、するとこなたは男山。
山すそに眠る八幡・山崎を通過中かと思うと折りしも、血を吐くようなほととぎすの声、川面には夜目にもしるく落花が静かに流れて行く。
「一声は月が啼いたか」 と思われ、一声は水中から発したようでもある。
ほととぎすの声は実に聞く者の腸も断たんばかりに悲しませるものであるが、まして故郷を離れているこの身にとって半夜の舟中での感慨はひとしお痛切なものがある。

○子規==ほととぎす。承句の杜鵑に同じ。
○杜鵑啼血==ほとtぎすの啼き声は哀切で血を吐くように聞こえるのでいう。
○一聲在月==藻風の 「さてはあの月が啼いたかほととぎす」 の句を踏まえている。それがまた、後徳大寺実則の 「ほととぎす啼きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」 の歌からきている。


(解 説)
題名は別に 「過八幡山崎」 ともある。八幡・山崎は天王山下の宿駅。舟で京都から大阪へ淀川を下る折、この両村を通過中、明月に杜鵑の声を聞いての作。
起句は韻を踏み落としている。

(鑑 賞)
転句は藻風の句からきているが、 「一声在月」 だけでは、あまりのも関係が際立ちすぎて新味に欠ける。それを 「一声水」 とうけることにより、水天渺茫の中の舟行の感じをよく出している。