豊公ほうこうきゅう たく だい
荻生 徂徠
1666 〜 1728


うみわた るの楼船ろうせん 大明たいみんふる わす

いずく んぞ らん

   柴荊さいけいちょう ぜんとは

千山せんざんふう しく

なおさく当年とうねん しつ こえ
絶海樓船震大明

寧知此地長柴荊

千山風雨時時惡

猶作當年叱咤聲

(通 釈)
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、大海を乗り切ってかの地に押し寄せた軍船は大国の明をも震え恐れさせた。
その秀吉の居城も、さして年月を経ていない今日、荒れるに任せ、雑木のみ生い茂るに至ろうとは、誰が予想することが出来たであろうか。
この付近の山々には、風雨がすさまじい唸りを上げて荒れ狂うことがあるが、それはさながら秀吉が大音声を上げて千軍万馬を叱咤しているかのように聞こえるのである。

○寄題==その地に行かないで題詠すること。
○豊公旧宅==豊臣秀吉のもとの住まい。
○絶海==絶はわたる。海をまっすぐに横切って渡る。
○楼船==船の上に櫓を設けた船。幾階にもつくられた大きな船。
○大明==大唐・大元・大清などの用法と同じく国号に大の尊称をつけたもの。中国人の呼称をそのまま用いたもので、これを尊んでいったのではない。
○柴荊==しばやいばらの雑木。
○時時悪==時折荒れる。
○当年==その昔。その当時。
○叱咤==烈しく号令すること。


(解 説)
秀吉の旧宅を想像して作った詩。どこを指したか判らないが、おそらく旧桃山城を指すのだと思われる。
朝鮮征伐の根拠地であった肥前 (佐賀県) 名護屋の本営 (東松浦郡鎮西町) との説もあるが、一時的の本営を 「旧宅」 というのはふさわしくないし、名護屋は西海に臨んだ景勝の地だが、その地勢に 「千山」 の語は当らない。
伏見桃山城 (京都府伏見町) の地は京都近郊ではあるが、その旧址 (桃山御陵の地) からの眺望は四面に山々が連なり、 「千山」 の形容もそれほど誇張とも思われない。ここに秀吉は天下の財力を上げて豪壮華麗な居城を築き、その中で没している。没後三十四年で廃城となり、石垣一つ残らなかった。承句がぴったりと当る。
なお、その生地尾張 (愛知県) 中村の旧宅とする説もあるが、その地は名古屋市中村区にあり、全く平野の真ん中である。それに当時の居城とか居宅が豪勢であってこそ、 「長柴荊」 の語が生きてくるのであって、この説もどうかと思われる。
(鑑 賞)
徂徠の詩は唐詩を宗とし、明の声調をもってするもので、巧緻の技巧を用いず、気迫に満ち、まことに堂々たる響きを持っている。
豊かな学識、豪邁の気性が自ずから詩の裏付けとなっているのであろう。
この詩など、徂徠自ら最も得意としたところのもので、起・承・転・結が自然に運ばれて、全体が力強く纏められており、勇壮悲涼の気がその間に満ち、豊公の余烈を追慕するにふさわしい。
この種の作としては、徂徠をおいては他に余り多く求められまいと思われる。