ひら いずみ かい
大槻 磐渓
1801 〜 1878


さん ごう てい きょう

朱楼しゅろう 碧殿へきでん くもせつ してなが

只今ただいま ただ 東山とうざんつき のみ って

たり らす当年とうねん金色堂こんじきどう
三世豪華擬帝京

朱樓碧殿接雲長

只今唯有東山月

來照當年金色堂

(通 釈)
藤原氏三代の繁栄は豪華さを極めた。当時、平泉を天皇の都京都になぞらえ、雲にとどくばかりの朱塗りの楼台、碧色の殿堂が長々と立ち並んでいたものであったが、今はただ、そうした豪奢も空しい夢となり、昔と変わらぬものは東山に出る月だけで、毎夜来たって当時からの唯一の遺物たる金色堂を照らしているのである。

○平泉==岩手県西磐井郡平泉町。北上川中流にある史跡。
東方本線の平泉駅に近い平泉丘陵には中尊寺・毛越寺や源義経最後の地といわれる高館の跡などがある。
清衡・秀衡・基衡の藤原三世がこの地に居館を築き、約百年に渡り、奥羽の地を領して豪華を極めた。
○金色堂==平泉の駅の西二`にある中尊寺の仏閣。一名光堂。国宝に指定されている。


(解 説)
藤原三代の豪奢も一場の夢となり、当年の唯一の遺物金色堂を月が照らすのみという感慨を述べたもの。
磐渓は仙台藩の役職にあったことから、平泉には何回も行ったことは容易に想像できるが、この詩がいつ作られたかは不明である。
(鑑 賞)
起・承は昔の藤原三代の豪華さを述べ、転・結は現在をいう。
転・結は李白の 「蘇台覧古」 の詩の転・結 「只今唯西江の月のみ有って、曾て照す呉王宮裏の人」 をほとんどそのまま借用している。
李白のは、月以外昔の遺物は何もないというところに無限の感慨がこめられているが、磐渓のは、金色堂のみは廃墟の中に当時の面影をとどめて月光に照らされている、というのであって、そこに微妙な差がある。何か芭蕉の句と通ずるものがある。