しゅん れん そう
頼 鴨
1825 〜 1859


はるおのずか往来おうらい してひと送迎そうげい
愛憎あいぞう 何事なにごと陰晴いんせい しむ
はなおと すのあめはなもよお すのあめ
一様いちよう檐聲えんせい ぜん じょう
春自往來人送迎

愛憎何事惜陰晴

落花雨是催花雨

一様檐聲前後情

(通 釈)
(四時の運行は天の道理であって、) 春は自然にやってきて、自然に去ってゆく。
人はこの去来を送り迎えすればよいわけであるが、なかなかそうはゆかぬもののようである。
何も雨が降ったから花も台なしだと思い、晴れたから花が見られると、一々憎んだり喜んだりすることはないのである。
花を散らす雨は、つまり花の咲くのをうながした雨、同じ雨なのである。
(今簾ごしに春雨の景色を眺めながら軒端の雨だれの音を聞いているが、) 同じこの雨だれの音も花の咲く前と咲いた後では、聞くものに愛憎両様の気持ちを起こさせることである。

○愛憎==天気だと喜び、雨になると憎む。
○惜陰晴==花を落とす雨を残念に思って憎む。
○檐声==軒に滴るあまだれの音。
○前後情==花の咲く前と咲いた後の気持ち。


(解 説)
簾外の春雨を眺め、軒端の雨だれの音を聞きながら、その感想を述べた詩。

(鑑 賞)
詩題から、春雨の景に対し、雨だれの音に耳をすましながらの感想であることが判る。
それで、作者の心理の自然の発展にしたがえば、転・結から起・承へと移ってゆく構成をとっていると見られる。
この雨では花も散ってしまうことだろう、いったんは雨を憎む気持ちにもなったが、同時に雨があったればこそ、花もこんなに咲くようになったのだと思い返す。そこから作者の心は、大自然の摂理と人間のわがままという問題に広がってゆく。
こうした心の動きは誰にも経験がある。ごく自然なもので単なる理屈をいっているのではない。ただ誰もが言いたいことを一首にまとめ上げることは容易ではないのである。