しゅん ぎょう
日柳 燕石
1817 〜 1868


やま ちて
  こま やかなることきり たり
きょう おう 幾囀いくてん ところ らず
ろう 一刻いつこく あたい 千金せんきん
しゅん しょう らずしゅん しょ に在り
花気滿山濃似霧

嬌鶯幾囀不知處

吾樓一刻價千金

不在春宵在春曙

(通 釈)
花の気は山に満ち、いっぱいに霧がたち込めているかのよう。
鶯の声が美しくなまめかしく聞こえてくるが、何処で鳴いているのか判らない。
自分の住むこの楼上からの眺めは 「一刻価千金」 ともいうべきであるが、それは春の宵のことではなく、春のあけぼのではあるまいかと思われる。

○嬌鶯==媚びるようになまめいた鶯の声。
○一刻価千金==蘇東坡の 「春夜」 の詩の起句に 「春宵一刻値千金」 とある。
○春曙==春のあけぼの。春暁に同じ。


(解 説)
満山の桜花の中にさえずる鶯の声を聞いて、春の曙の情趣を深く感じて作った詩。
自宅の柳東軒での作と思われる。

(鑑 賞)
この詩のあやは転・結にある。東をすてて清少納言をとった、新意の軽妙さもさることながら、さらに作者の春の曙に対するすぐれた感性に注目しなければならない。
「春はあけぼの」 につき、『春曙抄』 は 「春は曙を賞していへる少納言の心のあらはれ」 という。漢詩の 「春宵一刻」 風の情趣を転じて、曙の清爽なときにおいて春のあわれさを味わっている、清少納言の健康さを見ているのである。
この詩に対しても、それと同様なことがいえる。また江南平遠の地を変じて山近いわが国の風土の特色を出している点も見逃せないことで、燕石もこの点共通している。
ただ、燕石は曙の空に目をやらないで、満山の花気の中にさえずる鶯の声に曙の気分を感じており、そこにまた独自の詩の世界を開いているのである。