はなたい してきゅうおも
釈 義堂
1325 〜 1388


紛粉ふんぷん たるせい みだ れてあさごと
きゅう こん しん しゅう ただ みずかなげ
しゅん きた ってひと えず
えん あめそそ けいはな
紛粉世事亂如麻

舊恨新愁只自嗟

春夢醒來人不見

暮檐雨洒紫荊花

(通 釈)
世の中のことは実にわずらわしく、まるで乱れた麻の糸のようである。
その間に多くの知人を失い、昔の事を恨み、近ごろのことを愁い、ただみずから嘆くのみである。
春のうたた寝の夢からさめてみれば、夢に見たそれらの人たちの姿はなく、夕暮れの軒端の雨が、さびしく紫荊の花にしたたっているだけである。
(今は南北朝対立の悲しい時世であるが、なんとか両朝の合一が成って天下も穏やかになり、旧友たちの死も空しくなかったことになりたいものである。)

○紛粉==ごたごたしてわずらわしいさま。乱れるさま。
○世事==世間のこと。社会の出来事。政治上の問題など。
○旧恨新愁==以前に、また近ごろ亡くなった知人に対する恨みや愁い。
○人==夢に見た舊恨新愁の人たち。
○檐==ひさし。のき。
○紫荊花==花蘇芳 (ハナスオウ) 。紫荊は蘇芳のことで、熱帯アジア原産の豆科の小高木、また低木。
『続斉諧記』 に、
田新の兄弟三人が相談して遺産を分けたが、堂前の一株の紫荊樹を三分しようとしてこれを切りかけたが、たちまち樹が枯れて、まるで火の燃えるようなさまになったので切るのをやめた。するとまたもとのように勢いよく茂ったので、兄弟はこれに感じていったん分けあった財産を一緒に合せて仲よく協力するようになった。
と、ある。
この故事から兄弟が仲よく父の財産を共有していることをほめて 「紫荊花」 というようになった。

義堂の時代は南北朝が分立して天下が騒然たる状態だった。それは、兄弟が互いに遺産をわかって譲り合わない状態に似ている。ここで 「紫荊花」 を出していたのは、兄弟が従来の態度を改めて遺産を共有して家が栄えたように、南北朝の合一によって天下の泰平を来たすことの意を寄せたものであると思う。
なお、南北朝が合一したのは、義堂の死後四年目のことであった。


(解 説)
春の夕暮れに夢からさめて、軒端の雨がそそぐ紫荊の花を見ながら、今は亡き旧友たちの悲しい思い出にふけっている作。
「紫荊花」の故事を用い、南北両朝の合一のまだ成らないのを嘆く意を寄せている。

(鑑 賞)
作者の心情が目前の叙景によってひしひしと伝わってくる。春のうたた寝の夢がさめて、鉛色の夕空からしとしと小雨が紫荊花に降り注いでいる。
いましがたまで夢の中で共に談じていた旧友たちも、すでに遠い世界の人となってしまった。これらの旧友たちは、複雑紛糾したこの時局にあって、相前後して世を果てた人たちであって、それを思うと、わが心は深く痛むのである。
起承はむしろ転結から導き出されたもので、発想上からも、また 「対花懐旧」 の詩題から見ても、そう思われる。
「紫荊花」 を持ってきたのは、この故事を引くことにより、南北朝が合一すべきでありながら、まだその運びに至らず、対立抗争に明け暮れている現実に比したのであって、さびしく雨にうたれる紫荊花が、何かそれを象徴しているもののようである。