しょう なん こうははえい
本宮 三香
1877 〜 1954


なん ちょうれつ せいくすの

ゆる さずここはらほふ るを

さくら くん なんじ わす れたるか

かたなうばいましなみだ あふ

正行まさつら 感激かんげき してせい ちゅうちか

血戦けつせん いく たびかそう竹帛ちくはくこう

きみ ずやはは って るを

ちゅう こう ふたつ ながらまった きはしょう 楠公なんこう

南朝烈婦姓楠木

不許我子茲屠腹

櫻井遺訓汝忘焉

奪刀諫死涙溢目

正行感激誓誠忠

血戰幾奏竹帛功

君不見斯母在斯子在

忠孝兩全小楠公


(通 釈)
南朝の忠臣、楠正成の夫人は良妻賢母、まさに烈婦と称すべきであろう。
父、正成戦死の報に、子の正行が悲しみをこらえ切れず、仏間へかけ入って腹を切って死のうとすると、子の気持ちを十分に知りながら、正行に向かい、 「お前は桜井の駅の遺訓を忘れたのですか。父亡き後は、父の遺志を継ぎ、仇なす敵を討ちなさいということではなかったのですか。それを切腹とは何事ですか」 と刀を取り上げ、目に涙を浮かべながら、強く戒めた。
正行は母の強い言葉に、自分の弱さを恥じ、のみならず、感動して、改めて南朝のため、この身のあらんかぎり誠忠を尽くすことを誓い、その後、幾度となく出陣、鬼神も泣かせる働きをし、四条畷に散り、その名を歴史に留めた。
母が烈婦ならば、子もまた豪雄である。世に小楠公といわれる正行は、みごとに忠と孝との二つの道を全うした。これは烈婦である母の教育によるところが大きいといわなければなるまい。

○櫻井遺訓==正成が桜井の駅で、正行に別れる時に言い残した言葉。
○竹帛功==歴史に残り、後世に伝えられるべきいさお。竹帛は竹簡と絵ぎぬ。昔は紙がなかったので文字は竹帛に書いていた。このことから竹帛は歴史をさす。


(解 説)
楠木正成の婦人、すなわち正行の母の賢母ぶりを詠じたもの。
正行は父正成が湊川で討ち死にしたのを知ると、落胆のあまり仏間に入って切腹し様としたが、母はそれを止め、父正成の遺志を継ぐことこそ正行のとるべき道であることを悟す。
この母の、子に対する厳しいが深い愛と、その愛に育まれた正行の事績を詠じ、この親にしてこの子ありと、正行の母の賢母ぶりをたたえている。

(鑑 賞)
頼山陽は 『日本外史』 の中で、 「余偶摂藩の間を往来し、所謂桜井の駅なるものを問ひ、これを山崎路に得たり。・・・・」 とまことに情を込めた麗筆で、楠公親子のエピソードをたたえている。
作者は正成・正行親子の忠誠とは別に正行の母の烈婦ぶりを知って、それも心からたたえたい気持ちを持ったに違いない。正行を立派に育てて、武士としての気概を持たせ、その任務を全うさせようという、母としての厳しい愛がよく描かれている。