(通 釈)
親愛なる学生諸君。諸君に告げておく。諸君は勉学中であり、修業中の身である。
墨田川のほとりで花見などに浮かれてはならない。あのあの近辺は、桜の花もその美しさには恥らうほどの美人が徘徊して、酔歩の袖を引き、諸君をとりこにする。
墨田川のほとりで月見などに浮かれてもならない。光の下に、月も恥らう妙齢の女性がいて、諸君を誘惑するに違いないからだ。
いったい諸君は何の為に笈を負い、故郷を後にしたのか。学業を成就せんがためではなかったか。
そうした女性は諸君の堅い決意も、直ぐと鈍らせ、蕩かしてしまうものなのだ。
古の先哲・賢哲は、ちょっとの時間も惜しんで勉学に励んだものである。
ましてや、諸君は修業中のみである。どうして花見や月見にうつつをぬかし、色香に耽る暇などあろうか。一日たりともないはずである。
私は諸君のような青襟の学生を三十年も見てきているが、せっかくの大志も学業も、多くの場合、女性の色香によって、これを捨ててしまうことが多い。くれぐれも心してほしいものである。
○遜華==美人に花も顔負け、の意。 ○少婦==若い女性。
○潔==容姿が秀れていて、美しく品があることを意味する。
○惜陰==わずかな時間も惜しむ。
○花月==度を過ごした風流事。
○流連==遊行の楽しみに耽って家に帰るのを忘れ、飲酒の楽しみに耽ること。
わが国では流連を “いつづけ” と読み、花街で日を送ることを言う。
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(鑑 賞)
お説教の詩である。若者に対して、遊びにうつつをぬかさず学業に励め、という。
つまり、固いことを言っているのだ、が墨田の花と月を引き合いに出した当意即妙のうたいぶり、毎句に押韻した型破りな形式 (栢梁体という)
が、この詩を面白くしている。これなら若者も耳をふさがずに聞くだろう。艮斎先生の粋なお説教といったところ。
ちなみにその門下生からは、岩崎弥太郎・粟本鋤雲・藤森竹韋・松本奎堂・三島中州など多くの俊才が育っている。 |