しつ だい
勝 海舟
1823 〜 1899


ねんしょう せき 埃塵あいじんぼつ

しん じょう 天真てんしんおも

おく なりといえど えい

とみ泡沫ほうまつごとけむりごと

わら って江山こうざん ぜん としてみどり なるを

行蔵こうぞう あに また ひとかん せんや

かぜ敗葉はいよう いてよる 寂々せきせき

しょう きょう 凛然りんぜん としていつ けん さむ
他年蹤跡没埃塵

揣摩心情思天眞

華屋雖美是浮榮

富如泡沫名如烟

笑看江山依然碧

行蔵豈亦關于人

風捲敗葉夜寂寂

嘯響凛然一劍寒

(通 釈)
多年、肝胆を砕いたわが事跡も、はや、歴史の一こまとして、世間の塵埃の中に埋まり去ろうとしている。
維新の前夜、幕政を担当し、最も腐心したのは、一個の人間勝安芳として、いかに外国の侮りを防ぎ、いかに国家と国民の帰趨を誤らぬよう、適切な措置を講ずるかであって、官軍もなければ、幕府軍もなく、ただ国のため、民族のためという、純粋無垢、真実の心そのものであった。
もともと、我が身の功名栄達など考えたことはない。だいたい、豪華な邸宅などは、美しく立派に見えても儚いもの、根のない花のようなものだ。
また、財を蓄えたところでうたかたのように消えていき、名声を得てもいずれは煙のように消えていく。
これに対して、自然はいい。山河は依然として変わることがない。この自然の心を体したならば、人間欲も得もなく、山の青さ、水の碧さを虚心に鑑賞することが出来る。
私の出処進退は、こうした私の心境のしからしむるものであって、世の人事にかかわりがあるわけではない。 そういうものについても、自然の移りと同様、無心でいられる余裕がある。
折りしも、閑居の窓の外には、風が枯葉を宙に舞わせ、さびしい音を立て、夜は静かに更けていく。
一詩吟じて、宝剣の鞘を払えば、刃は秋水のように、わが心をさらに清澄ならしめる。

○蹤跡==足跡。
○没埃塵==<埃塵> は塵埃に同じ。ほこりとちり。
維新の際、幕臣として江戸城明け渡しのまで事を運んだことに対し、世評の芳しくないのをさいている。
○揣摩==己の心をもって人の心を推し量ること。
○天真==天から与えられた、純粋無垢な気持ち。
○華屋==贅を尽くした豪壮な邸宅。
○浮栄==世俗の栄華の儚いこと。根帯がなく、事あれば一朝にして消滅するものを表現する。
○行蔵==世に出て道を行うこと。世を逃れて隠遁すること。出所進退の意。
○敗葉==枯葉。落葉。
○嘯響==嘯吟の声、その響き。吟嘯・吟詠。
○一剣寒==刀を抜いて見入って心引き締まって寒さを覚えるさま。


(解 説)
晩年、海舟が自分の心境を述べたもの。海舟の漢詩掲載順から、明治二十六年の作とされている。
「詠憶」 と題するものもある。富貴栄達を雲や煙と同一視した自分の心境を述べている。
(鑑 賞)
この詩は、海舟晩年の心境を端的に表現するものとして取り上げた。
この詩には、海舟が幕藩の要人の立場にありながら、風雲急を告げていた日本の騒乱期に、いかなる心境で事に当ったかが素直に述べられている。
海舟は、若くして禅を修めた。禅は相対観・価値観・差別観など総てを超越する。その思考から、海舟は “富貴栄達” を雲と煙に述べている。この心境があったからこそ、 “江戸城明け渡し” の道も開かれたのであろう。日本人の “心の歴史” を学ぶ上からも、愛吟するにふさわしい詩ではなかろうか。