(通 釈)
多年、肝胆を砕いたわが事跡も、はや、歴史の一こまとして、世間の塵埃の中に埋まり去ろうとしている。
維新の前夜、幕政を担当し、最も腐心したのは、一個の人間勝安芳として、いかに外国の侮りを防ぎ、いかに国家と国民の帰趨を誤らぬよう、適切な措置を講ずるかであって、官軍もなければ、幕府軍もなく、ただ国のため、民族のためという、純粋無垢、真実の心そのものであった。
もともと、我が身の功名栄達など考えたことはない。だいたい、豪華な邸宅などは、美しく立派に見えても儚いもの、根のない花のようなものだ。
また、財を蓄えたところでうたかたのように消えていき、名声を得てもいずれは煙のように消えていく。
これに対して、自然はいい。山河は依然として変わることがない。この自然の心を体したならば、人間欲も得もなく、山の青さ、水の碧さを虚心に鑑賞することが出来る。
私の出処進退は、こうした私の心境のしからしむるものであって、世の人事にかかわりがあるわけではない。 そういうものについても、自然の移りと同様、無心でいられる余裕がある。
折りしも、閑居の窓の外には、風が枯葉を宙に舞わせ、さびしい音を立て、夜は静かに更けていく。
一詩吟じて、宝剣の鞘を払えば、刃は秋水のように、わが心をさらに清澄ならしめる。
○蹤跡==足跡。
○没埃塵==<埃塵> は塵埃に同じ。ほこりとちり。
維新の際、幕臣として江戸城明け渡しのまで事を運んだことに対し、世評の芳しくないのをさいている。
○揣摩==己の心をもって人の心を推し量ること。
○天真==天から与えられた、純粋無垢な気持ち。
○華屋==贅を尽くした豪壮な邸宅。
○浮栄==世俗の栄華の儚いこと。根帯がなく、事あれば一朝にして消滅するものを表現する。
○行蔵==世に出て道を行うこと。世を逃れて隠遁すること。出所進退の意。
○敗葉==枯葉。落葉。
○嘯響==嘯吟の声、その響き。吟嘯・吟詠。
○一剣寒==刀を抜いて見入って心引き締まって寒さを覚えるさま。
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(解 説)
晩年、海舟が自分の心境を述べたもの。海舟の漢詩掲載順から、明治二十六年の作とされている。
「詠憶」 と題するものもある。富貴栄達を雲や煙と同一視した自分の心境を述べている。
(鑑 賞)
この詩は、海舟晩年の心境を端的に表現するものとして取り上げた。
この詩には、海舟が幕藩の要人の立場にありながら、風雲急を告げていた日本の騒乱期に、いかなる心境で事に当ったかが素直に述べられている。
海舟は、若くして禅を修めた。禅は相対観・価値観・差別観など総てを超越する。その思考から、海舟は “富貴栄達” を雲と煙に述べている。この心境があったからこそ、
“江戸城明け渡し” の道も開かれたのであろう。日本人の “心の歴史” を学ぶ上からも、愛吟するにふさわしい詩ではなかろうか。 |