さか もと  りょう
松口 月城
1887 〜


勤王きんのうたい いた

るべしりょう だい 精神せいしん

王政おうせいふく よう ならず

しん しょう たん いく 艱辛かんしん

何事なにごといち きょう じんたお

げん痛恨つうこん ひとおも

勤王大義致吾身

可看龍馬大精神

王政復古不容易

臥薪嘗胆幾艱辛

何事一夜殪兇刃

無限痛恨懐斯人


(通 釈)
土佐の坂本竜馬ほど、勤王の大義を貫き、国事に奔走した人はいない。
おのれのことは考えず、ただ公の立場にたって、不退転の勇猛心を持って事に当ったあの忠誠の心、果敢な精神を我々はよく明記しなければならない。
三百年も続いた幕府を倒し、天皇親政にもどすというのは、まさに至難なことであった。しかも、土佐は初め佐幕派であった。苦心、苦労の連続であり、艱難辛苦明け暮れであった。
竜馬はそれにじっと耐え、長州・薩摩を結び付け、成功へ導いた。
竜馬の努力が実り、王政復古への曙を見ようとした時、一夜凶刃に倒れたのは、何と言う事か。あの時期、この人物を横死させてしまったのは、今更に惜しまれてならないことである。


(解 説)
坂本竜馬 (1835〜1867) は天保六年十月十五日、土佐城下、高知本町の酒造業出身の郷士坂本直吉の次男として生まれた。幼児から文武をよくし、嘉永六年、十九歳の時、江戸に出て千葉周作に漢を学び、多くの志士と交流、安政五年、二十四歳の時に一時国へ帰り、土佐勤王党に加わったが、首領武市半兵太と意見が合わず、文久二年、二十八歳で脱藩、勝海舟を刺殺しようとしたが、逆に世を見る眼を教えられ、以来、海舟を師として、単純な尊皇攘夷論を捨て、世界に目を向け、海員養成と貿易に従事、のちの海援隊組織を作る。
一方維新推進の原動力として薩長同盟を成立させ、また、勝海舟の思想を背景に、土佐藩の重役、後藤象二郎と計って 『船中八策』 を作り、幕府に大政奉還を建言、これを実現させた。
だが、これによって、新撰組・見廻り組の急迫を受けることになり、慶応三年十一月十五日、才谷梅太郎という変名で投宿中の京都四条河原町の近江屋で、たまたま訪れた土佐の中岡慎太郎とともに見廻り組の佐々木唯三郎ら七人によって切りつけられ、竜馬は即死、中岡も三日後に絶命した。
    心から 長閑くもあるか 野辺はなほ 雪消ながら の春風ぞ吹く
これは、竜馬が大政奉還を聞いて作った歌として知られている。

(鑑 賞)
竜馬のような人物は、その果たした役割が大きく、活動の幅が広く、エピソードも多いだけに、様々な角度から詠じることが出来るが、この詩は、竜馬を王政復古、回天の事業の立役者としてまっこうから取り上げている。
竜馬を詠じた詩は、竜馬が歴史の上で大きな役割を果たした割には少ない。この詩は、その現実を配慮した財団法人日本吟剣詩舞振興会の要請に応じ、作者が特に作ったもの。
もともと吟詠詩のベテランだけに、吟じやすく作られている。