じゅう しち えい
坂井 虎山
1798 〜 1850


こと からしめば

臣節しんせつ なに ってか たん

つねこと らば

ついまさ王法おうほう からんとす

王法おうほうはい すべからず

臣節しんせつ むべからず

茫茫ぼうぼう たるてん こんかん

こと ひとゆるせき じょう
若使無茲事

臣節何由立

若常有此事

終將無王法

王法不可廢

臣節不可已

茫茫天地古今

茲事獨許赤城士

(通 釈)
もし義士たちの主君の仇をかえすという義挙がなければ、臣下の主君に対する誠はとって立てることが出来ようか。
だが、しかし、もしいつもこのような事件があったら、ついには国法は無いに等しくなり、国の秩序は乱れる。
国法は廃絶することは出来ない、さりとて、臣節は途絶えるものではない。果てしなく広がる天地の果てまで、昔から今に至る永い時間の流れの中で、赤穂義士の義挙だけは許されよう。

○臣節==臣下の主君に対する貞節の心。忠義。
○何由立==これにかわる何物によって臣節を立てることが出来るかの意。
○王法==国王が出す命令。国家の法秩序。
○不可廃==廃止することが出来ない。
○不可已==やむことが出来ない廃されない。
○独許==王法を曲げてまで臣節をつくした仇討ちはただこれ一つだけは許されようという意味が込められている。


(解 説)
吉良邸打ち入りで知られる赤穂義士、四十七士を詠じた詩。
四十七士の墓は東京芝高輪の泉岳寺にあるが、虎山は、泉岳寺に詣で 「泉岳寺」 と題する七言絶句も作って、赤穂義士の忠魂を弔っている。
浅野内匠頭長矩が江戸城中で吉良上野介義央に恥ずかしめられ、刃傷事件を起こし切腹を命ぜられたのは、元禄十四年 (1701) で、翌十五年十二月十四日に、大石内蔵助良雄ら四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を報じている。
幕府によって四十七士が切腹を命じられたのは、十六年二月二日であった。 その遺骸は主君の墓の傍らで葬られた。
虎山は寛政十年 (1798) 生まれであるので、一世紀近く前の事件であったが、幕末の風雲急な世相の中で、世の乱れを嘆きながら、かっての義士を想い、作詩したものであろう。
詩中、王法 (国の法律・政治) と臣節 (臣としての礼節) を並置させながら、王法を曲げれば世は乱れるが、さりとて、臣節を捨てれば、人の心の秩序がくずれるという一見相矛盾することを述べながら、臣節に殉じた四十七士に限りない同情の気持ちを寄せている。
前半は臣節と王法とを対比させ、そのあるべき姿を論じ、後半で、王法は廃止すべきものではないは、臣節も已むものではない。
しかし、臣節は王法あってのものであり、赤穂義士の義挙のようなものは、一度だけ許されるべきものと、と言って結んでいる。

(鑑 賞)
赤穂義士の討ち入りに対する評価は事件当時から意見が分かれていた。
虎山は、この詩の中で、王法と臣節とを対比させて、国法は絶対であるが、臣節は軽んじてはならぬとしている。これは四十七士を義士とする一般の庶民感情についての、知識人側からの理論付けでもある。
ただし、虎山は、こうした義挙を繰り返してはならない。またこうした義挙を起こす必要のない政治をすることが大切であると述べている。
四十七士の討ち入りについて、国の政治と臣下のあり方を論じた憂国の学者らしい作品といえよう。