じゅつ かい かい てん
藤田 東湖
文化三 (1806) 〜 安政二 (1855)

三決死矣而不死

二十五囘渡刀水

五乞闥n不得

三十九年七處徙

邦家隆替非偶然

人生得失豈徒爾

自驚塵垢盈皮膚

猶餘忠義?骨髄

嫖姚定遠不可期

丘明馬遷空自企

苟明大義正人心

皇道奚患不興起

斯心奮發誓~明

古人有云斃而已

たびけつ してしか せず
じゅう かい 刀水とうすいわた
たびかん うてかん
さん じゅう ねん しち しょうつ
ほう りゅう たい 偶然ぐうぜんあら
人生じんせい得失とくしつ あに ならんや
みずかおどろ塵垢じんこう つるを
なお ちゅう あま して骨髄こつずいうず
ひょう よう 定遠ていえん べか からず
きゅう めい せん むな しくみずかくわだ
いやしくたい あき らかにして人心じんしんただ さば
皇道こうどう なんこう せざるをうれ えん
この こころ 奮発ふんぱつ 神明しんめいちか
じん たお れて むと


自分は今までに三回も死を決意したことがある。
一回目は、文政七年にイギリスの捕鯨船員が非道・乱暴をもって常陸大津浜を騒がした時。
二回目は文政十二年に起きた藩主後継者問題で、斉昭公を擁立しようとして奔走した時。
三回目は、弘化元年、斉昭公が幽閉され、自分も幽囚の身となった時である。
が、いずれも死にまで至らなかった。
また国事に奔走して水戸と江戸との間を往来すること二十五回、その都度、利根川を渡った。
自分の思う所に従って五度も辞職を願い出たが、その都度止められて閑居することは出来なかった。
この三十九年の間に住居を移すこと七回、人生の移り変わりの激しさを痛感せずにはいられない。

国家は興るべくして興り、衰えるべくして衰える。一見して偶然のようだが、必ず原因がある。また、人生における失意と得意、孝と不幸、こうした事も偶然には起こり得ないのである。幽囚の身で入浴は出来ず、体は汚れ、皮膚を掻くと垢がボロボロと落ちる程である。だか心は今も清く正しく、忠義の心は骨の中までしみ込んでいる。

西漢の将軍嫖姚 (霍去病) も東漢の将軍定遠 (班超) も、共に異敵を討って大功を立てたが、今の幕府のように因循では、どうにも致し方ない。せめて国語を著した左丘明や史記の作者司馬遷が逆境の中で奮発して、歴史に残る名著を書いたように、自分もあやかりたいものである。
尊皇の大義を説き、忠孝を根本として人の心を正しく導くならば、皇道の興らないことは断じてないのである。
自分は、これを神々に誓ったのだから、この決心は少しもゆるがない。
あくまでやり通すばかりである。
昔の人の言った 「斃れて後やむ」 のように。