聖徳太子は未来記の中で、 「人皇五十九代にあたって、東魚が来って日を呑む」 と述べられたが、東海の大魚
(北条氏) は、鰭や尾をふるい動かし黒波をけたてて皇室にまで迫り、後醍醐天皇を孤島・隠岐の島へ移し、かっての後鳥羽上皇と同じように、痛ましい境遇にあわせた。こうして日本国中は、あたかも天日が隠れたかの如く百鬼横行の状態となった。
このときただ一人、悪気を払い乱れたよう立て直そうと百万の賊徒と戦い、落日を戈をふるって招き返したという周の魯陽公のように、朝廷の勢いを挽回せんものと力戦し、また兵士と苦楽を共にしつつ城壁の破損を率先してつくろったという斉の即墨の城将田単のごとく、城兵と共に悪戦苦闘しつつも、
「関西自ら男子あり」 と叫び、敵の勧降に応じなかった魏の高歓の如く最後まで勤皇の為に尽くしたものは誰ぞ。それは楠木正成公であったのだ。
正成公は自ら勤皇の兵を起こし、これに呼応した諸将と協力し、よく天皇のご信任にこたえて鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇を隠岐の島よりお迎え申し上げて天皇親政を樹立し、建武の中興を達成したのである。
その戦功を論ずるならば、中国で安禄山が反乱を起こしたとき、大軍をスイ陽城に引き受けて戦った張巡にも比すべき正成公こそ第一に推されるべきであるのに、意外にも李光弼や郭子儀程度の働きであった新田義貞や足利尊氏らが
「建武中興」 の最大の功臣とされたのである。
正成公は、軍を率いては征夷大将軍、朝廷にあれば宰相たるべき程の人でありながら、低い官位に甘んじなければならなかった。然し間もなく、前狼後虎というように、足利尊氏が背いて天下は再び乱れた。正成公は朝廷に策を献じたが入れられず、そのために今度の戦は成功なしということは知っていたが、一度勤皇のために立ち上がった以上は生還は願っておらず、遂に湊川の死地に赴かれたのである。其の上、それだけでなく、その子孫にも志を継がしめ、一家・一門の血肉は王事に尽くしてことごとく全滅したのである。しかも、この楠木の一族が居なかったら、吉野の行在所すら守ることが出来ず、天子は一体何処に身を置かれたらよかったのだろうか。
私は今、攝津の山々が連なり、紺碧の海近きここ兵庫の湊川に来て、往年のことを思い浮かべている。
思えば楠公は、桜井の駅でわが子正行に訣別をし、弟正李とともにここに来り、寡兵をもって寄席来る足利の大軍と戦うこと半日、遂に刀折れ矢尽きて最後のときが来た時、都の方に向かって再拝すれば、折から空はかき曇り、日光さえもさえぎられてしまっている。今はこれまで、
「七たび人間に生まれて国賊を滅ぼさん」 と堅く誓い、正李と刺し違えて討ち死にされたのである。
それから五百年を経った今日、楠公たちの血を吸った土はあとを止めず、往年の戦場は田野となり、春の野には大麦がはてしなく生い茂っている。
君達は知っているだろう。かの君臣たちが陰謀をもって凌ぎ合い、また骨肉相争った北条氏の九代や足利氏の十三代のことを。
彼等の栄華は皆虚名に等しく今は跡形もないではないか。それにひきかえ、非命に斃れたとはいえ、忠臣・孝子を一門に集め、 「嗚呼忠臣楠子之墓」
と刻まれた碑は、万世の後の世まで多くの英雄の感涙を呼ぶのである。
この両者、果たして比べようになろうか。
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