ちく かわくだきく 正観せいかん こう
たたか いし ところかん じて さく
頼 山陽
安永九 (1780) 〜 天保三 (1831)

文政之元十一月

吾下筑水?舟筏

水流如箭萬雷吼

過之使人竪毛髪

居民何記正平際

行客長思己亥歳

當時國賊擅鴟張

七道望風助豺狼

勤王諸將前後没

西陲僅存臣武光

遺詔哀痛猶在耳

擁護龍種同生死

大擧來犯彼何人

誓剪滅之報天子

河亂軍聲代銜枚

刀戟相摩八千師

馬傷冑破気u奮

斬敵取冑奪馬騎
被箭如蝟目眥裂

六萬賊軍終挫折

歸來河水笑洗刀

血迸奔湍噴紅雪

四世全節誰儔侶

九國逡巡西征府

棣萼未肯向北風

殉國劍傳自乃父

嘗卻明使壯本朝

豈與恭獻同日語

丈夫要貴知順逆

少貳大友何狗鼠

河流滔滔去不還

遥望肥嶺嚮南雲

千載姦黨骨亦朽

獨有苦節傳芳芬

聊弔鬼雄歌長句

猶覺河聲激餘怒
文政ぶんせい がん じゅう いち がつ
われ 筑水ちくすいくだ って しゅう ばつやと
すい りゅう ごと万雷ばんらい
これ ぐれば ひと をして 毛髪もうはつ たしむ
居民きょみん なん せん しょう へいさい
行客こうかく とこし えに おも がいとし
とう 国賊こくぞく ちょうほしいまま にす
七道しちどう かぜのぞ んで豺狼さいろうたす
勤王きんのうしょ しょうぜん ぼつ
西陲せいすい わず かにそんしん 武光たけみつ
しょう哀痛あいつう なお みみ
りゅう しゅよう して せい おな じゅうせん
大挙たいきょ たり おかかれ 何人なんびと
ちか って これ剪滅せんめつ して てん ほう ぜん
かわ軍声ぐんせいみだ して 銜枚かんばい
刀戟とうげき あい 八千はつせんいくさ
うま きず つき かぶと やぶ れて 益々ますます ふる
てきかぶとうまうば って
せんこうむ ること ごともく
六万ろくまん賊軍ぞくぐん つい せつ
かえきた って すいわら ってとうあら えば
奔湍ほんたんほとば って紅雪こうせつ
せい全節ぜんせつ たれちゅう りょ せん
きゅう こく しゅん じゅん西せい せい
棣萼ていがく いまあえ北風ほくふうむか かわず
じゅん こくつるぎだい よりつと
かつみん 使しりぞ けてほん ちょうさかん にす
あに きょう けん同日どうじつかた らんや
じょう よう するにじゅん ぎゃく るをとうと
しょう 大友おおとも なん
りゅう 滔滔とうとう ってかえ らず
はるかのぞ れい南雲なんうんむこ うを
千載せんざい姦党かんとう ほねまた
ひと せつ芳芬ほうふんつと うる
いささ ゆうとむろ うてちょう うた えば
なお おぼ せい げき するを

文政元年 (1818) 十一月、私は舟を雇って筑後河を下った。河の流れは矢のように速く、その音は万雷が吼ゆる如くで思わず毛髪が逆立つほどであった。
土地の人は、この付近が古戦場であることを一向に知っていないが、私は今此の水勢を見て、その昔、この河の辺で賊軍と戦った菊池武光公の忠烈を思い浮かべたのである。

それは正平十四年 (1359・己亥) 八月の戦の事である。当時は国賊が全国的にはびこり、東海・東山・北陸・南海・山陽・山陰・西海 の七道、すべて賊の威を恐れて賊徒と化し、豺狼も如き足利氏に味方をしたのである。勤王の諸将は相次いで没し、西のはて九州においては、菊池氏一人が残るばかりであった。

武光公は後醍醐天皇の悲痛なご遺言を忘れることなく、征西将軍懐良親王を擁護して生死を共にする覚悟であった。
こうした折、足利方に転じた少弐頼尚や大友氏泰らは大軍を擁して攻め寄せて来た。
武光公は彼等を打ち滅ぼして天子の親任にこたえんものと固く誓って、八千の軍を率いて筑後河の急流を渡って敵陣になだれ込んだ。
激戦また激戦、馬は傷つき冑は破れ鎧は多くの矢を受けたがひるむことなく、敵を切り伏せ、敵の冑を取ってかぶり、馬を奪って乗り換えて進み、遂に六万の敵を敗走させたのである。
戦い終わって川辺に戻り、笑って血刀を洗えば、岩に激する真っ白な水泡は紅に染まったのである。

武光公の父武時、兄武重、子の武政ら四代の忠節に並ぶものがあろうか。父子兄弟こぞって皇室の為に尽くしたので、西征府を打ち立てることが出来たのである。菊池一族の中には誰一人として北朝方に従ったものはなく、こうした殉国の精神は祖父伝来のものである。

武光公の忠節のあらわれは戦ばかりでなく、正平二十三年 (1368) 明国の使者が博多に来た時には、その無礼を怒って追い返し、我が国の意気を示した。
これに引き換え足利義満は卑屈にも明に臣礼をとり、没後恭献王の諡号を受けたが、この両者、なんと大きな相違であろうか、男子たるものは順逆をわきまえることが大切である。足利氏に味方して菊池氏を攻めた少弐や大友の如きは、犬や鼠にも劣るものである。

河の流れは滔々として去って帰らず、当時の事も遠い昔のこととなってしまった。しかし、はるかに肥後の山々が南の雲間に聳えているのを見ると、菊池氏が軟調の為に尽くした当時のことを想起するのである。
賊徒と化した少弐・大友らの骨は朽ち果ててしまったが、菊池氏の苦節は今も芳しい香りを伝えている。
いささか忠魂を弔うべく、ここに長編の詩を作れば、筑後河の激流の音は、菊池氏の余怒をもらして激しているかと思われるのである。