文政元年 (1818) 十一月、私は舟を雇って筑後河を下った。河の流れは矢のように速く、その音は万雷が吼ゆる如くで思わず毛髪が逆立つほどであった。
土地の人は、この付近が古戦場であることを一向に知っていないが、私は今此の水勢を見て、その昔、この河の辺で賊軍と戦った菊池武光公の忠烈を思い浮かべたのである。
それは正平十四年 (1359・己亥) 八月の戦の事である。当時は国賊が全国的にはびこり、東海・東山・北陸・南海・山陽・山陰・西海
の七道、すべて賊の威を恐れて賊徒と化し、豺狼も如き足利氏に味方をしたのである。勤王の諸将は相次いで没し、西のはて九州においては、菊池氏一人が残るばかりであった。
武光公は後醍醐天皇の悲痛なご遺言を忘れることなく、征西将軍懐良親王を擁護して生死を共にする覚悟であった。
こうした折、足利方に転じた少弐頼尚や大友氏泰らは大軍を擁して攻め寄せて来た。
武光公は彼等を打ち滅ぼして天子の親任にこたえんものと固く誓って、八千の軍を率いて筑後河の急流を渡って敵陣になだれ込んだ。
激戦また激戦、馬は傷つき冑は破れ鎧は多くの矢を受けたがひるむことなく、敵を切り伏せ、敵の冑を取ってかぶり、馬を奪って乗り換えて進み、遂に六万の敵を敗走させたのである。
戦い終わって川辺に戻り、笑って血刀を洗えば、岩に激する真っ白な水泡は紅に染まったのである。
武光公の父武時、兄武重、子の武政ら四代の忠節に並ぶものがあろうか。父子兄弟こぞって皇室の為に尽くしたので、西征府を打ち立てることが出来たのである。菊池一族の中には誰一人として北朝方に従ったものはなく、こうした殉国の精神は祖父伝来のものである。
武光公の忠節のあらわれは戦ばかりでなく、正平二十三年 (1368) 明国の使者が博多に来た時には、その無礼を怒って追い返し、我が国の意気を示した。
これに引き換え足利義満は卑屈にも明に臣礼をとり、没後恭献王の諡号を受けたが、この両者、なんと大きな相違であろうか、男子たるものは順逆をわきまえることが大切である。足利氏に味方して菊池氏を攻めた少弐や大友の如きは、犬や鼠にも劣るものである。
河の流れは滔々として去って帰らず、当時の事も遠い昔のこととなってしまった。しかし、はるかに肥後の山々が南の雲間に聳えているのを見ると、菊池氏が軟調の為に尽くした当時のことを想起するのである。
賊徒と化した少弐・大友らの骨は朽ち果ててしまったが、菊池氏の苦節は今も芳しい香りを伝えている。
いささか忠魂を弔うべく、ここに長編の詩を作れば、筑後河の激流の音は、菊池氏の余怒をもらして激しているかと思われるのである。
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