文天ぶんてん しょうせい うた
藤田 東湖
文化三 (1806) 〜 安政二 (1855)

天地正大気 粹然鍾神州

秀爲不二嶽 巍巍聳千秋

注爲大瀛水 洋洋環八洲

發爲萬朶櫻 衆芳難與儔

凝爲百錬鐡 鋭利可斷?

?臣皆熊羆 武夫盡好仇

~洲孰君臨 萬古仰天皇

皇風洽六合 明徳r太陽

世不無汚隆 正気時放光

乃參大連議 侃侃排瞿曇

乃助明主斷 ??焚伽藍

中郎嘗用之 宗社磐石安

清丸嘗用之 妖僧肝膽寒

忽揮龍口劍 虜使頭足分

忽起西海颶 怒濤殲胡氛

志賀月明夜 陽爲鳳輦巡

芳野戰酣日 又代帝子屯

或投鎌倉窟 憂憤正??

或伴櫻井驛 遺訓何慇懃

或殉天目山 幽囚不忘君

或守伏見城 一身當萬軍

昇平二百歳 斯気常獲伸

然當其鬱屈 生四十七人

乃知人雖亡 英靈未嘗泯

長在天地閨@隠然敍彝倫

孰能扶持之 卓立東海濱

忠誠尊皇室 孝敬事天~

修文與奮武 誓欲清胡塵

一朝天歩艱 邦君身先淪

頑鈍不知機 罪戻及孤臣

孤臣困?? 君冤向誰陳

孤子遠墳墓 何以謝先親

荏苒二周星 獨有斯気随

嗟予雖萬死 豈忍與汝離

屈伸付天地 生死復奚疑

生當雪君冤 復見張綱維

死爲忠義鬼 極天護皇基

てん 正大せいだい  粹然すいぜん としてしん しゅうあつ まる
ひい でては がく り  としてせん しゅうそび
そそ いでは大瀛たいえいみず り 洋洋ようよう としてはつ しゅうめぐ
ひら いてはばん さくら り  しゅう ほう ともたぐいがた
っては ひゃく れんてつ り  えい かぶと
じん しん みな ゆう   ことごとこう きゅう
しん しゅう れか 君臨くんりん したもう  ばん 天皇てんのうあお
皇風こうふう 六合りくごうあまね く  明徳めいとく 太陽たいようrひと
として りゅう くんばあらず  せい ときひかりはな
すなわおお むらじさん じ  侃侃かんかん どんはい
すなわ明主めいしゅだんたす け  ??えんえん らん
ちゅう ろう かつ って これもち い  宗社そうしゃ ばん じゃく やす
清丸きよまる かつ って これもちい  妖僧ようそう 肝膽かんたん さむ
たちまたつの くちけんふる い  りょ 使 頭足とうそく わか
たちま西海せいかいおこ し  とう ふんつく
つき あきら かなるの   いつわ って 鳳輦ほうれんじゅん
よし たたかたけなわ なるの   また てい ちゅんかわ
ある鎌倉かまくらくつとう じ  ゆう ふん まさ??うんうん

あるさくら えきともな い  くん なん慇懃いんぎん なる
ある天目てんもく ざんじゅん じ  ゆう しゅう きみわす れず
あるふし じょうまも り  一身いつしん 万軍ばんぐんあた
昇平しょうへい ひゃく さい   つね ぶるを たり
しか れども 鬱屈うつくつ するに っては  じゅう しち にんしょう
すなわひと ほろ ぶと いえど も  英霊えいれい いまかつほろ びず
とこしえてん かん りて  隠然いんぜん りんじょ
れか これ し  卓立たくりつ東海とうかいひん
ちゅう せい 皇室こうしつとうと び  孝敬こうけい 天神てんしんつこ
しゅう ぶんふん と  ちか って じんきよ めんと ほつ
いつ ちょう てん なや み  ほう くん しず
頑鈍がんどん らず  罪戻ざいれい しんおよ
しん ??かつるいくる しむ  君冤くんえん たれ かって べん
ふん とお ざかる  なにもつ てか 先親せんしんしゃ せん
荏苒じんぜん たり しゅう せい   ひとしたご
ああ われ ばん すと いえ も  あに なんじはな るるに しの びんや
屈伸くつしん てん す  せい また なんうたが わん
きては まさ君冤くんえんそそ ぐべし  また こう るを るべし
しては ちゅう おに って  きょく 天皇てんこう まも らん


この広大な宇宙の間に満ちる正大の気宇のうちもっとも純粋なものが、この神州に集まっている。
そのあらわれとして先ず秀峰富士の山がある。あの八面玲瓏の美しい気高い姿は、高く空を突いて永久に聳え立っている。
目を転ずれば、流れる水は注いで大海の水となって満々とたたえて我が国の周囲をとりまき、パッツと開いた桜の花は、枝もたわわに咲き揃い、その美しさは、他のどんな美しい花でも、その美を競うことが出来ないほどである。
鍛えに鍛えた鉄は日本刀となり、その切れ味の鋭さは冑を断ち割ることさえ容易である。
忠愛心の厚い臣は皆勇猛で、武士達は勇気ある真の意味の勇士である。
このように素晴らしい日本国を統治されるお方は誰であろうか。それは言う迄もなく、この国の出来た大昔より万世一系の天皇におわします。皇室の御感化は国中に行き渡り、代々の天皇の御徳は太陽にも等しいもので他に比較し得るものはない。だが、長い間には世運にも変遷があり、時に世が衰えて暗い影を生じることが無いではない。そんなときには、天地間の生気がその存在をはっきりさせて人倫を維持する役割を演ずるのである。

その例をあげれば、欽明天皇の昔、百済王から釈迦仏金剛像と幡蓋・経論などが献じられた後、疫病が流行した為に、かねてから排仏を主張していた大連の物部尾輿は 「神々が怒られたもの」 として御前会議において仏像の破棄を奏上し、天皇の御決断をたすけた。その寺は焼かれ、焔は天おも焦がすほどであった。

また、中臣鎌足は奮起して、横暴目に余る曽我氏を亡ぼして国家の基礎を安定させ、和気清麻呂は僧道鏡が神旨と偽って帝位につこうとした時、道鏡の利の誘いにも乗らず、脅迫にも屈せず、正しい神旨を奏上して道鏡の肝胆を寒からしめた。

執権北条時宗は、建治元年に元の使者杜世忠らが来日した際、彼のわが国に対しての度重なる無礼な書状に怒って、使者を鎌倉龍の口の刑場において斬って捨てた。このことに怒った元の大軍が、弘安四年北九州に侵攻して来た時、突然大暴風雨が起こって元軍はことごとく海底に沈んでしまったのである。

吉野朝時代になると正気は忠君愛国の至誠を人々の心に植え付けた。藤原師賢は後醍醐天皇の身代わりとなり、天皇の御衣を身に着け、御輿に乗り、志賀の月明らかなる夜鳳輦を進めて敵の目をあざむき、天皇を無事にお移し申し上げ、村上義光・義隆の親子は、護良親王が芳野で敵軍に囲まれて苦戦されたとき、自らの命を断って親王をお落とし申し上げた。 足利尊氏によって鎌倉の窟に幽閉さ給うた護良親王は、幽閉後も心から国家の将来を心配し給い、尊氏の姦計をこの上もなく憎しみ給うた。

楠正成は湊川への出陣に際して正行を伴ったが、桜井の駅において正行に対し、 「吾が亡き後、生命のあらん限り、一族の存する限り、忠義を励むように」 とねんごろに諭して涙ながらに東西に別れたが、楠公こそ、南朝にとって最も大きな存在であった。

また、甲斐武田の臣小宮山友信は、主人の不明から勘気を受けて浪人となり、貧困に陥っていたが主人のことを忘れることなく、主・勝頼が戦に破れた時に馳せつけて天目山で殉死をした、
家康の家臣鳥居元忠は、家康東征の際、攻められて陥る城と知りつつ寡兵をもって伏見城に残り、攻め寄せた数万の包囲軍と戦って城と運命を共にした。

天下が統一され、徳川の時代に成って二百年も太平の世が続き、此の間も正気は常にその光を発揮していた。しかし、時にそれが衰えざるを得ない場合には、忽ち、赤穂四十七士の快挙などがあり、こらが全然消え去らないことを証明した。

我々は、人間の肉体は滅びても、すぐれた人の霊魂は尽きることなく、永久に天地の間に存在して、厳粛に人間が守らねばならないことを秩序づけていることを知ることが出来る。

しかし、今正気を示しているものは一体誰があろうか。それは東国常陸の吾が主人徳川斉昭公唯一人といえるだろう。
斉昭公は心から皇室を尊び、祖先にまします天照大御神に真心を持って仕え奉っているのである。
水戸藩では文に傾かず、武に偏せず、しかも両者に徹し、神々に誓って我が国を異国の脅威から守ることに努力をした。しかしそのことが幕閣の誤解するところとなり、忠誠の人はその志を阻まれ、斉昭公は無実の罪によって幽居を命ぜられてしまった。
才知の鈍い自分達は、この事のきざしを知ることが出来ず、そればかりか忠義の臣は悉く罪を得、自分もまた幽閉されてしまった。こうして斉昭公の無実を一体誰に向かって陳べたらよいのだろうか。その手段もなくなってしまった。

自分は斉昭公の無実を晴らすことが出来ないばかりか先祖の墓参も出来ず、亡父幽谷の霊にお詫びする言葉さえない。もう二年半も憂悶しているが、自分で自分を文を慰められるものは、一時も正気から離れたことはないという自覚のみである。
ああ、自分は今、万が一にも此処で生命を終わるとしても、決して正気から離れられるものではない。自分が今後、この幽閉の生活から解かれるか否かは天運に任せるばかりだし、生死もまた少しも意に介していないのである。
こうした覚悟のもとに、この世に生きている限りは、主君の無実を晴らす努力を続け、また社会の秩序を正したいと思う。
若し死んだならば、忠義の鬼となって、天地のあらん限り、この国の天子の事業をお護りしようとするものである。