本 能ほんのう
頼 山陽
安永九 (1780)〜天保三 (1832)

 
本能ほんのう みぞ幾尺いくせき
だい を就すは今夕こんせき
こう そう こうあわ せてくら
えんばい 天墨てんすみごと
おい いの阪西さかにし れば備中びっちゅうみち
むち げてひがし せば天猶早てんなおはや
てきまさ本能ほんのう
てき備中びっちゅうなんじ そな えよ

本能寺の溝の深さは幾尺だろうかと、彼は部下にたずねた。
わが大事を成し遂げるのは今宵だと思うと気もひき しまる思いである。
けれども彼はその思いのあまり、手にしたちまきを皮ごと口にする状態だった。
おりしも五月 雨の時節で四方の軒には梅雨がふりそそぎ、空は墨を流したように暗く、彼の前途の悲運を示すかのごよくだっ た。
兵を整えて出陣した光秀は老阪まで来た。
これより西に向かえば備中へ行く道である。
しかし光秀は鞭をあ げて東を指し、京都に向かえと号令した。 刻はまだ未明である。
この時光秀は「敵は本能寺にあり」と絶叫したが 実は本当の敵は備中の秀吉である。
だからそれらに対する備えを充分にすべきだったのである。