八幡太郎義家は少年の頃より戦場に往来し、強弓を引いては敵の肝を寒からしめ、関八州は草や木までも皆その威風に靡いたのである。 寛治元年九月、出羽金沢の柵を攻めようとするとき、軍旗厳正の源次の白旗は整然として動かず、また乱れることもなかった。 すなわち馬を辺境金沢城近く進めた折り、雁の列がにわかに乱れたのを見て伏兵あるを知ったのである。