八 幡 公はちまんこう
頼 山陽
安永九(1780)〜天保三(1831)

結髪従軍弓箭雄

八州草木識威風

白旗不動兵営静

立馬邊城看亂鴻
結髪軍けっぱつぐんしたがって弓箭雄きゅうせんゆうなり
八州はっしゅう草木そうもく ふう
はつうごかず兵営静へいえいしずか なり
うま辺城へんじょう てて亂鴻らんこう

八幡太郎義家は少年の頃より戦場に往来し、強弓を引いては敵の肝を寒からしめ、関八州は草や木までも皆その威風に靡いたのである。
寛治元年九月、出羽金沢の柵を攻めようとするとき、軍旗厳正の源次の白旗は整然として動かず、また乱れることもなかった。
すなわち馬を辺境金沢城近く進めた折り、雁の列がにわかに乱れたのを見て伏兵あるを知ったのである。