〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/04/24 (木) 夕 顔 の 帖 (二)

源氏が申し分ない正妻の葵 (アオイ) の上 (ウエ) にどうしても愛情が湧かないのは、父帝や左大臣によって与えられた、努力も苦労も伴わない関係だったからである。
十七歳といっても数え年だから、今では十六歳のまだ高校生だ。何という早熟な不良少年かと愕くところだが、この時すでに、父帝の妃、自分にとっては義母に当る藤壺と、思いを遂げていることがぼんやり示されている。
「帚木」 の巻に、源氏が紀伊の守の家に行った夜、女房たちが自分の噂をしているのを盗み聞く場面がある。
「胸深く秘めていらっしゃることばかりが気にかかっているので、まずどきりとなさいます。こんな折にでも、女房たちがあのお方との秘めごとを口にすべらせるのを聞きつけたら、どうしようか」 と思うと、恐ろしくなるという源氏の脅えには、単なる片想いではない切迫したものが感じられる。
この時点で、すでに何等かの形で、藤壺と肉体的に不倫の関係を結んでいたと解釈できるのである。
藤壺を得た自信が、なかなか逢えない藤壺の代用品として、同じ高貴の、得難い女性 (ニョショウ) の六条の御息所に近づかせたのだろう。
紀伊の守の邸では誰はばからぬ強引な態度で人妻に近づき犯す源氏の太々しさには、最高の女性を二人もたてつづけに掌中にした若者の自信の裏打ちがあったのである。
しかし、夕顔の死に際して、源氏が身も世もなく馬から落ちるほど自失して、嘆き悲しむ姿を見せられて、読者はほっとする。この我を忘れた悲嘆ぶりには、青年の純情さが感じられるし、万一、よみがえった時、自分がいなかったら、夕顔がどう思うだろうと、見栄も保身もかなぐり捨てて、死体を運び込んだ東山の秘密の場所に、出かけていく源氏の一途さも、若さゆえの情熱と純愛の発露で、感動的である。
藤壺への初恋は、母恋いの変形だと取る説もあり、この許せない所行も、その一点で許せると観る説もあるが、そんな通俗な発想ではなく、源氏の恋愛事件のいざこざは、あくまで、困難な恋にしか情熱が湧かないという源氏の持って生まれた因果な性格によるものだろう。コンスタンの 「アドルフ」 の中に、 「すべては性格の悲劇です」 という言葉があるが、源氏の生涯を貫くものは、この性格がもたらす悲劇に外ならないと思う。
男性の諸君に、源氏物語の中で好きな女性はと訊くと、異口同音に 「夕顔」 と答える。夕顔という女は、それほど男性にとっては好ましい永遠の女性であるようだ。可憐で、謎めいて、おとなしくて、性的にもすばらしい。男のいいなりになり、心も体も、飴のようにとろけさせ自在に曲げ、水のようにどんな男のすき間をも満たそうと、ぴったり密着してくる。まるで我というものが全くないように見える女。ところが紫式部は、この夕顔にもっと、不思議な魅力を書き加えている。
廃院へつれ出して、はじめて源氏が覆面をとって、顔を見せ、 「どうだい、この顔は、御感想はいかが」 というような歌を自信たっぷりに詠みかけると、夕顔は流し目にちらrと見て、 「前にちらりと見てすてきと思ったのは、それがたそがれ時のひが目だったのかしら、間近で見ると、大したこともなかったわ」 という返歌で、やんわり返す。決して、個性のない無色の女ではないのである。こうした反応の仕方をみても、ユーモアも解するし、とっさの機転もきく、手応えのある女だったのだ。
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ