〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/06/05 (木) 夕 顔 (二十九)

かの伊予の家の小君、参るおりあれど、ことにありしやうなる伝言 (コトヅテ) もしたまはねば、憂しとおぼし果てにけるをいとほしと思う¥ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。
遠く下りなむとするを、さすがに心細ければ、おぼし忘るるかと、こころみに、
「うけたまはりなやむを、言にいでては、えこそ

問はぬをも などかと問はで ほどふるに いかばかりかは 思ひ乱るる
益田はまことになむ」
と聞こえたり。めづらしきに、これもあはれ忘れたまはず。
「生けるかひなきや、誰が言はましきことにか。
空蝉の 世はうきものと 知りにしを また言の葉に かかる命よ
はかなしや」
と、御手もうちわななかるるに乱れ書きたまへる、いとどうつくしげなり。 なほかのもぬけを忘れたまはぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。かように憎からずは聞こへかはせど、け近くとは思ひよらず、さすがにいふかひなからずは見えたてまつりてやみなむと、思ふなりけり。
かの片つかたは、蔵人の少将をなむ通はす、と聞きたまふ。あやしや、いかに思ふらむと、少将の心のうちもいとほしく、またかの人のけしきもゆかしければ、小君して、
「死にかへり思ふ心は、知りたまへりや」 と言ひつかはす。
ほのかにも 軒端の荻 (オギ) を むすばずは 露のかことを なににかけまし
高かやかなる荻に付けて、 「忍びて」 とのたまへれど、取りあやまちて少将も見つけて、われもなりけりと思ひあはせば、さりとも罪ゆるしてむと思ふ御心おごりぞ、あいなかりける。少将のなきをりに見すれば、心優しと思へど、かくおぼしいでたるもさすがにて、御返り、口ときばかりをかことにて取らす。
ほのめかす 風につけても 下荻 (シタオギ) の なかばは霜に むすぼほれつつ
手は悪しげなるを、まぎらはしさればみて書いたるさま、品なし。
火影 (ホカゲ) に見し顔おぼしいでらるる。うちとけでむかひゐたる人は、えうとみ果つまじきさまもしたりしかな、何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよとおぼしいづるに、憎からず。なほこりずまに、またもあだ名立ちぬべき御心のすさびなめり。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)

あの伊予の介の家の小君が、二条の院に参上する折もあるのですが、源氏の君は以前のようには、特別にお伝言もなさいませんので、空蝉の女はもうすっかり自分のことは薄情な女と見限られて、あきらめておしまいになったのだろうと思いました。それにつけてもお気の毒に思っておりました。ところが、このようにご病気だとの噂をうかがうと、やはり悲しくてならないのでした。
遠く伊予へ下ろうとする今は、さすがに心細くて、自分のことはもうすっかりお忘れになってしまったのかと、試しに、
「御病気とのことを承りまして、お案じ申しあげておりますが、言葉に出してはとても・・・・」

「問はぬをも などかと問はで ほどふるに いかばかりかは 思ひ乱るる」
(お便りしないのを なぜとも訊かぬあなたに むなしく過ぎゆく時に どんなにか思い乱れて 泣く暮すわたくし)
「益田 (マスダ) はまことでございました」
と、お手紙をさしあげました。益田とは <ねぬはなの 苦しかるらむ 人よりも 我ぞ益田の 生けるかふなき> という古歌の益田で、苦しいという人よりも、わたしこそもっと苦しくて、生きている甲斐もありません、という意味です。
源氏の君は、この手紙の来たことが珍しいのと、この空蝉の女への愛もお忘れにはなっていらっしゃらなかったので、
「生きている甲斐がないとは、どちらが言いたいせりふでしょう」
「空蝉の 世はうきものと 知りにしを また言の葉に かかる命よ」
(空蝉のようにはかない 恋のせつなさは 思い知らされたのに またこんな便りに すがりたい わが命)
「なんともはかないことです」
と、まだ筆を持つお手もわなわな震えるので、乱れ書きにお書きになったのが、何というお見事さ。
女はまだあのもむけの小袿 (コウチキ) を源氏の君がお忘れになっていらっしゃらないのを、おいたわしくも、しみじみ嬉しくも思うのでした。その後も、こういうふうな、憎からずに思われる程度の情のあるお手紙のやりとりは、如才ないほどにはしますけれど、近々とお逢いするなどとは思いもよりません。とは言うものの、さすがに源氏の君から、木石のように非情な女だと、思われたままでお別れしたくはないと、心のうちでは思い迷っているのでした。
もう一人の娘の方は、蔵人 (クロウド) の少将を婿にして通わせていると、お聞きになっています。おかしなことだ。もし娘がはじめてでないとわかったら、どう思うだろうと、少将の気持ちも気の毒だし、また、あの女の様子も知りたくて、小君を使いにして、
「死ぬほど思っているわたしの心は、お分かりになっているのでしょうか」
と、言ってやります。
「ほのかにも 軒端の荻 (オギ) を むすばずは 露のかことを なににかけまし」
(ほんのかりそめにでも ああして軒端の荻を結び 契り交わした仲でなければ 何を理由に露ほどの 恨みごとなど言いましょう)
背の高い荻に文を結びつけて、 「こっそり渡せ」 とおっしゃるのですが、万一失敗し少将が見つけたとしても、相手が自分だと思い当たれば、女の過去を知ったところで、許すだろうとお思いになります。その自惚れのお心こそ、何とも困ったものでございます。
いい具合に、丁度少将の居ない折に、小君がお手紙を渡しますと、女は今更と、恨めしく思うものの、さすがに思い出してくださったのがうれしくて、早いだけを申し訳にして、御返歌を小君に渡しました。
「ほのめかす 風につけても 下荻 の なかばは霜に むすぼほれつつ」
(ほのめかしのお便り いただくにつけても 荻の下葉が霜に あたったように わたしの心はなかばしおれて)
字はうまくないのに、ごまかそうとしてしゃれたように書いてあるのも、品がありません。いつか灯影で御覧になった顔をお思い出しになります。
「あの時、さし向いに慎ましそうに坐っていた空蝉の女は、今でもまだ、思い捨てきれないしっとりした様子をしていたものだ。この女は、何の嗜みもありそうになく、浮ついてはしゃいでいたな」
とお思いだしになりますと、やはり軒端の荻の女も満更でもないお気持ちなのです、相変わらず懲りもなさらず、またまた浮き名の立ちかねない、浮気心がきざしていらっしゃるようです。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ