〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/06/04 (水) 夕 顔 (二十八)

夕暮れの静かなるに、空のけききいとあはれに、御前の前栽 (ザンザイ) からがれに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしきまじらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひいづるもはづかし。
竹のなかに家鳩 (イエバト) といふ鳥の、ふつつかに鳴くを聞きたまひて、かのありし院にこの鳥の鳴きしを、いと恐ろしと思ひたりしさまの、おもかげにらうたく思ほしいでられるれば、
「齢 (トシ) はいくつにかものしたまひし。あやしく世の人に似ずあえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」 とにたまふ。
十九にやなりたまひけむ。右近は、亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、三位の君のらうたがえいたまひて、かの御あたり去らず、生ほしたてまひしを思ひたまへいづれば、いかでか世にはべらむとすらむ。いとしも人にと、悔しくなむ。ものはかなげにもにしたまひし人の御心を、たのもしき人にて、年ごろならひはべりけること」 と聞こゆ。
「はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。みづからはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして人にあざむかれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、あはれにて、わが心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」 などのたまへば、
「このかたの御好みにはもて離れたまはざりけり、と思ひたまふるにも、くちおしくはべるわざかな」 とて泣く。
空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたくながめたまひて、

見し人の 煙 (ケブリ) を雲と ながむれば ゆふべの空も むつましきかな
とひとりごちたまへど、えさしいらへもきこえず。かようにておはせましかばと思ふにも、胸塞 (フタ) がりておぼゆ。耳かしましかりし砧 (キヌタ) の音を、おぼしいづるさへ恋しくて、 「まさに長き夜」 とうち誦 (ズン) じて臥したまへり。
(口語訳・瀬戸内 寂聴)

夕暮れの物静かさの中に、空の風情もしみじみと心にしみて、前庭の秋草が枯れ枯れになり、虫の音もまた鳴き嗄 (カ) れた中に、紅葉がしだいに色づいてきたのが、絵に描いたように美しいのです。右近はしみじみあたりを見わたして、思いもかけず結構なお勤めをさせていただくものよと思うにつけ、あの夕顔の宿のわびしい暮らしを思い出すのも恥ずかしくなります。
竹薮の中で、家鳩という鳥が、無粋な野太い声で鳴くのをお聞きになって、源氏の君はあの時の何とかいう院で、この鳥の声を聞いて、女君がたいそう怖がった様子が、とても可愛らしかったのを、ありありと思い出されるので、
「あの人の年は、いくつになっていたのだろう。妙に、世間の人に似ないで、嫋々 (ジョウジョウ) とか弱く見えていたのは、こんなふうに長生きできない宿命からだったのだろうね」
とお訊きになります。
「十九におなりだったと思います。わたしは、あのお方の亡くなった乳母の娘でございますが、母がわたしを捨て置いて死にましたのを、三位の中将さまが憐れみ可愛がってお引き取りくださいました、女君のお側に置かれて、御一緒にお育て下さったのでございます。そのご恩を思いますと、どうして女君の亡くなられた後にわたしひとり生き残っておられましょう。こんなお別れがあるなら、どうしてあんなに、深く馴れ親しませていただいたのかと、 <いとも人にむつけれむ> (思ふとて いとしも人に むつれけむ しかならひてぞ 見ぬは恋しき) の歌のように、かえって悔しくなります。いかにもお気が弱く、頼りないようなご様子の女君のお心を、わたしは頼みとしておあずかりし、長の年月お側で過ごしてまいったのでございます」
と申し上げます。
「女は頼りなさそうに見えるのが、可愛いのだ。しっかり者で気が強く、人の言うことを聞かない女は、どうも私は好きになれないね。わたし自身がはきはきさず頼りない性質だから、女はただやさしく素直で、うっかりすると男のだまされそうに見えるのが、さすがに慎み深く、夫の心に頼りきって従うというような女が可愛く、そういう女を自分の思うように躾け直して暮らしたら、睦ましく過ごせると思うのだけれど」
などとおっしゃいますので、右近は、
「そういうお好みには、ほんとうにぴったりのふさわしいお方でしたのに。それにつけても、残念でなりません」
と言って泣くのでした。
空もいつの間にか曇ってきて、風が冷え冷えとしてきました。源氏の君はたいそうしんみりともの思いに沈みこまれて、

「見し人の けぶりを雲と ながむれば ゆふべの空も むつましきかな」
(恋しい人を葬った煙 もしやあの雲かと 眺めていると 淋しい夕暮れの空も なつかしくて)
ひとりごとをつぶやかれましたけれど、右近はご返事も申し上げられません。今、こうして源氏の君のお側で、ふたりきりでしみじみお話させていただいているように、女君がここに自分の代わりにいらっしゃったなら、と思うにつけても、胸がいっぱいになってまいります。
源氏の君は、五条の家で耳にうるさく聞こえていて砧 (キヌタ) の音の思い出までが、恋しく偲ばれて、 <八月九月正に長き夜> と白楽天の 「聞夜砧」 の詩を、口ずさまれて、お寝みになられたのでした。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ