〜 〜 『 源 氏 物 語 』 〜 〜
 

2008/06/03 (火) 夕 顔 (二十七)

九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩 (オモヤ) せたまへれど、なかなかいみじくなまめかしくして、ながめがちにねをのみ泣きたまふ。
見たてまつりとがむる人もありて、御もののけなめり、など言ひもあり。
右近を召しいでて、のどかなる夕暮に、物語などしたまひて、
なほいとなむあやしき。などてその人と知られじとは、隠 (カク) いたまへりしぞ。まことに海士 (アマ) の子なりとも、さばかりに思ふを知らで隔てたまひしかばなむ、つらかりし」
とにたまへば、
などてか、深く隠しきこえたまふことはべらむ。いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ。はじめより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、うつつともおぼえずなむある、とのたまひて、御名がくしも、さばかりにこそは、と聞こえたまひながら、なほざりにこそまぎらはしたまふらめ、となむ、憂 (ウ) きこことにおぼしたりし」 と聞こゆれば、
「 あいなかりける心くらべどもかな。われは、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人にゆるされぬふるまひをなむ、まだならはぬことなる。内裏にいさめのたまはするをはじめ、つつむこと多かる身にて、はかなく人にはぶれごとを言ふも、所狭 (セ) う、とりなしうるさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕 (ユフベ) より、あやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ、またうち返しつらうおぼゆる。
かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれにおぼえたまひけむ。なほくはしく語れ。今は何ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏かかせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」
とのたまへば、
「何か、隔てきこえさせはべらむ。みづから忍びすぐしたまひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思うたまふばかりになむ。親たちは、はや亡 (ウ) せたまひにき 。三位の中将となむ聞こえし。いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、わが身のほどの心もとなさをおぼしめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭の中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見そめたてまつらせたまひて、三年 (ミトセ) ばかりは志あるさまに通ひたまひしを、去年 (コゾ) の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参 (マ) で来 (キ) しに、物懼 (モノオジ) をわりなくしたまひし御心に、せむかたなくおぼし懼 (オ) じて、西の京に、御乳母住みわびたまひて、山里にうつろひなむとおぼしたりそを、今年よりは塞 (フタ) がりけるかたにはべりければ、違 (タガ) ふとて、あやしき所にものしたまひしを、見あらはされたてまつりぬることと、おぼしく嘆くめりし。
世の人に似ずものづつみをしたまひて、人にもの思ふけしきを見えむを、はづかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧ぜられたてまつりたまふめりかし」
と、語りいづるに、さればよ、とおぼしあはせて、いよいよあはれまさりぬ。
「をさなき人まどはしたりと、中将のうれへしは、さる人や」 と問ひたまふ。
「しか、一昨年 (ヲトトシ) の春ぞ、ものしたまへりし。女にて、いとらうたげになむ」 と語る。
「さて何処 (イズク) にぞ。人にさとは知らせで、われに得させよ。あとはかなく、いみじと思ふ御かたみに、いとうれしかるべくなむ」 とのたまふ。
「かの中将にも伝ふべけれど、いふかひなきかこと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、はぐくむに咎 (トガ) あるまじきを、そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなしてものせよかし」 などかたらひたまふ。
「さらばいとうれしくなむはべるべき。かの西の京にて生 (オ) ひいでたまはむは、心苦しくなむ。はかばかしくあつかふ人なしとて、かしこになむ」 と聞こゆ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

九月二十日の頃には、すっかり御全快になりました。病後で痛々しく面やつれ「なさいましたけれど、それがかえってたいそうなまめかしい感じになられました。ややもすればぼんやりと外を眺められ、もの思いがちに声をあげて泣いてばかりいらっしゃいます。その御様子を拝して見咎める者もおりまして、
物の怪がおつきになったのでは」
など心配いたします。
そんなある日ののどかな夕暮れに、右近をお召しになられて、しみじみお話なさるのでした。
「やはりどうしてもわからない。あの人はなぜ、自分の素性を知られないようにひた隠しにしていたのだろうか。たとえ真実 『海人の子』 であったとしても、わたしがあれほど愛していたにもかかわらず、他人行儀に隠していたのか、とても恨めしかった」
とおっしゃいますと、右近は、
「どうしてそんなにどこまでもお隠しになることがございましょう。いったいあの短いおつきあいのいつ、大したこともないお名前を名乗られることがお出来になったでしょう。そもそも初めから、何とも妙な成り行きでああいうことになりましたので、 『すべてが夢のようで、現実のこととも思えない』 とおっしゃっておいででした。あなた様がお名前をお隠しになっていらっしゃるのも、たぶん、源氏の君にちがいないとお噂はしていらっしゃいましたが、 『やはりいいかげんな遊びのおつもりだから、本気で愛してはくださらないのだ、だからいつまでも素性をお隠しになるのだろう』 と、とても情けながっておいででした」
と、申し上げます。
「つまらない意地を張り合ったものだね。私はそんなふうに隠し事をするつもりなどは毛頭なかったのだ。ただこんなふうな、世間から禁じられた忍び歩きなどはしたこともなかったのだよ。帝からお叱りを受けるのをはじめとして、どちらにも遠慮の多い身の上で、ちょっと女に遊び半分に懸想めいたことをしても、世間がせまく、すぐまわりの取り沙汰がうるさくてね。すぐあれこれ非難される境遇なのだ。ところが、あの、ふとしたことのあった夕べから、不思議にあの人が忘れられず、無理を重ねて内緒に逢いにいったのも、こうなる前世の因縁があったのだろうと思われて、いっそうせつなくもなれば、また、一方では恨めしくも思われてならない。こんなにはかなく短い契りだったにしては、どうしてあんなにも心に染みて恋しくてたまらなく思われるのだろう。もっといろいろ詳しくあの人のことを話しておくれ。今はもう何も隠す必要はないのだから。七日、七日の法会にみ仏のお姿を描かせて供養しても、一体誰のための供養と考えればいいのやら」
とおっしゃいます。右近は、
「どうして、おわたしがお隠しもうしましょう。ご自分が隠しておっしゃらなかったことを、お亡くなりになった後で、はしたなくお喋りしては、申し訳ないと思うからでございます。御両親は、はやくお亡くなりになられました。御父上は、三位の中将と申し上げたお方でした。姫君をとても可愛がっていらっしゃったのですが、ご自分の御運のままならなさをお嘆きあそばすうちに、お命まではかなくなってしまわれました。その後に、ふとした御縁で、頭の中将さまがまだ少将でいらした頃、お見初めになられて、三年ほどは熱心にお通いくださいました。ところが去年の秋ごろでございます。頭の中将様の北の方の父君の右大臣のところから、たいそう脅迫がましい恐ろしいことを申してよこされました。元々、とても物怖じなさる気の弱いお方でしたので、どうしようもなく怖がられ脅えておしまいになり、西の京に、乳母が住んでおりましたのを頼って、こっそりそこへ隠れました。そこもずいぶんむさ苦しい暮らしなので、お住み辛くなり、いっそのこと山里に引きこんでしまいたいとお思いになっていらっしゃいました。ところが、今年からはそちらの方角が悪うございましたので、方違えをしようということで、あのあやしげな五条の宿においでになりましたのです。そんなところをあなた様に見つけ出されて、恥ずかしくお嘆きのご様子でした。世間の人に似ず、極端に内気でいらっしゃって、恋の物思いにとらわれていらっしゃいましても、それを人にさとられるのを、とても恥ずかしがられて、いつも何気ないふうにふるまって、あなた様にもお逢いになっていらっしゃったようでございます」
と、話し出しました。
源氏の君は、それではやはり、頭の中将のあの話の常夏の女だったのかと、思いあわされて、ますます愛情が深まりました。
「幼い子の行方も知れなくなったと、頭の中将が悲しんでおられたが、そんな子がいたのか」
とお問いになります。
「はい。一昨年の春、お生まれになりました。女のお子でとても可愛らしゅうございます」
と話します。
「それで、その子はどこに居るのか。人には内密に、その子をわたしに預からせてくれないだろうか。何ひとつ残さずあっけなく亡くなったあの人の形見に、せめてその子を育てられたらどんなに嬉しいだろう」
とおっしゃいます。
「頭の中将にも知らせてあげたいけれど、今更言っても甲斐ない恨みを、きっとわたしが受けるだろう。何にしても、どっちみち、わたしがその子を育てるのに不都合はあるまいから、その子を世話している乳母などにも、わたしのところではないようにいいつくろって、連れてきてはくれまいか」
などとお話なさいます。右近は、
「それなら、ほんとうに嬉しゅうございます。幼い姫君が、あのさびしい西の京でお育ちになるのはお気の毒でなりません。五条の家ではしっかりお世話申しあげる人がいないというので、あちらに預けていらっしゃったのです」
と申し上げます。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ